2.徳の話
大阪に御霊神社がある。東区淡路町五丁目。地図でいうと、大阪のメインストリート御堂筋の西側、
淀屋橋に近い処にある。昔から大阪商人の守護神みたいな存在で、商売の神様。
ここのご神体は旧摂津国の産土神だそうだ。往古の大阪は芦荻が繁茂して、円江(つぐらえ)とい
う円形の入江を形成していたらしい。この円江の地主の神が瀬織津比売神、津布良の両神で、これを
祀奉して円神祠いい、現在の御霊神社の古名となっている。
船場、愛日、中之島、土佐掘、江戸掘、靱、阿波掘、阿波座、薩摩掘、立売掘、長掘の西部、南北
掘江の西部等を旧摂津国津村郷といった。
何はともあれ、大阪商人は古来から御霊神社のご縁起を担ぐ人が多い。
福沢諭吉の福翁自伝の、当時の緒方塾の塾生が暴れて夜の植木市の店閉いをさせる、例の悪戯物語
に出て来る舞台も、実はここである。境内は古木鬱蒼としているわけではないが、広闊で、社殿に額
づくと「徳のなる記」が目につく。「大阪商人の真随」を感じさせる雰囲気です。社務所で二百円出せば、
この「信条」を誰でも入手出来る。
「福は内、鬼は外、金のなる記」としてあります。「金のたまる人」、「金のたまらぬ人」として十
項目列記してあるが、その末尾に総括して「徳は元、財は来るぞよ徳つめば、金は自由になるものと
知れ」と、結んでおります。
蓋し「大阪商人の哲学」みたいですね。
「徳を積みなさい、有徳の人は銭が自由になる」ということでしょうね。松本氏は、自から努めて有
徳の人になったのか、それとも天性この人にはその素養があったのか、それは解らない。
松本夫人の栄さんにその辺を聞いてみた。そうしたら、こういうお返事だった。
「あの人は何事も善意にとる人で仕合わせです。六十年近くも商売をして来て、怒った顔をみたこと
がありません。ぼんさんでウチに来て他店に移った子もおりません。毎日仕事を楽しんでおります。
明日に希望を持っておるのでしょうか。
古い話ですが、関東大震災、ウチでは商売を創めたばかり、あの時でも、無暗に□銭をとらず商売
をしておりました。〃震災にあった人は気の毒だ。出来るだけ安く商品を分けてあげなくちゃ〃そう
云ってせっせと働いていたのです。
終戦当時でもウチは絶対に闇取引はしませんでした。大阪では同業者、金物問屋が四十〜五十軒ご
ざいました。例の大阪大空襲の戦禍、このとき大抵の同業者、仲間は戦災に遭われました。焼け残り
はウチ位でしたでしょうか。〃世間では松本さんはいい人だから、天恩が厚い〃と云ったよ、と申し
ておったこともございます」 次はご子息重太郎氏(当時常務)の話だ。
「私から申して恐縮ですが、ウチの親爺は有徳の人だと思いますね。お袋の話で、松本だけが戦災に
遭っていない話が出ましたが、子供として男は私一人。他は女ばかりで四人。その相手、聟殿ですね。
年令からいって大東亜戦争をモロにかぶっている人達ですが、誰一人戦死した人がございません。現
在子供六人、孫十人、身辺は賑やかなもので、取引先とも顔馴染が多いし、多幸な人だと思いますよ。
何時の事でしたか、司馬遼太郎氏にお会いしたときも、その話が出ました。
本社落成式、微笑の六郎翁 (昭和43年8月) |
〃君の親爺さんは徳のある人だ〃
〃有徳とは何です?〃
司馬さんも一寸考えられましてね。
〃そう云われるとむづかしいね。深い思いやり、とでもいうのかな〃と、おっしゃって笑ってみえた
ことがございます。親爺は旧主今西さんを大切にしておりました。金銭面ばかりではありません。私
から申してはさしでがましいですが<心の温かい人>だと思っております」と。