12.金物問屋へのあこがれ


 日納藤七郎商店へ奉公してから早や三度目の新年を迎えた。年の瀬には、すす払い、広い家屋をくまなく払い清めるのが年中行事。別家と出入りの職方等が来て餅つき、随分派手に、多量の餅を夜明けからつく。楽しい年末の思い出だ。除夜の鐘を聞いて、大正7年の元旦を迎え、数え年19才になった。待ちに待った三日間の休日は、商売以外の乗客の応対で忙しい。別家の人、嫁さんを連れて紋付袴で年賀の礼に来る。市会関係の客等々忙がしく、ゆっくり正月を楽しむ事も出来ない。

それでも夕方から御霊神社の境内にある寄席に、先輩と二人で落語を聞きに出かける。先代の笑福亭松鶴、先代春団治等の話を面白く聞く。4日店を明けたが客も無く注文も無い。開店休業。十日戎の晩には恒例にて、帳祝と言って店員の新年宴会。牛肉のすき焼でお洒が出る。一年中で牛肉を食べられるのがこの日だけ。次に15日は小正月。25日が初天神で賑わう。それがすむと正月気分も抜けて、本格的な商売がはじまる。しかし店は閑散だ。世間は不景気と言う事もないのにどうしたものか…と言って従来の慣習で注文聞きに市内廻りをする事もなく、勿論地方出張もしない。毎朝屋号を染めぬいたのれんを店頭に吊り、荷造のないのが体裁が悪い為、空箱を店頭に並べる。店には60才位の書記が毛筆で帳付けをする。

前歴はどう言う人か知らぬが、なかなか達筆だ。自分より年長22才の番頭 自分と1年下の直吉どんと4人、前々号に書いた通り毎朝投宿日報を見て、各旅館を手分けして出かけるが、なかなか地方客が来てくれない。昨年首になった番頭なきあとは、未熟の為か一生懸命に工夫もし努力もするのだが、力が及ばず残念ながら日を追って売上げが減ってゆくのだ。地方客が来てくれても、落目になった問屋には、品物も少なく、倉の商品も売行きの悪い品物が残っており、金物と違って鼻緒は長期に在庫して置くと品傷みがはげしく流行おくれになり絹物、別珍など色が変る。レザーは堅くなる。これでは客が寄りつかなくなるのも無理はない。その上 店の立地条件が悪い。履物問屋の並ぶ御堂筋は、北は店のある瓦町から、南は博労町まで数十軒が軒を並べて繁昌しているのであり、我が店の瓦町は、一番北で一元の客も来ない。それでも日納藤七郎商店は古い老舗でもあり、主人は履物組合の顧問もしておられる。四国、中国、九州地方には未だ通信で注文をくれる店もあるが、それでも残っている得意先は支払も悪く、やかましく催促しないので取引が続いているという状態かも知れない。

忘れもしない九州伊万里に金丸宇と言う地方卸屋があって、通信取引でよく買ってくれたが、ひどく支払が悪かつた。注文が入っても品物が揃わないと、同業者で取寄せをする。世利帳と言う和綴の判取帳のようなのを持って取寄せに行く。今と違って伝票を書く代りに世利帳に記入してくれる。世利帳を持って行かなければ品物を渡さない。出し切手の代りもする。便利であり間違いもおこらない。取寄せた品物を売っては利益が少ない。他の問屋に行くと、皆忙がしく客もあり荷造もしている。どうも残念で口惜しい。先輩と協力して何とか立直してと思うが、とてもむつかしい。悪い事には早春のある日の午後、書記さんが突然脳溢血で倒れた。日頃酒の好きな人で、食事の時熱い御飯に酒をかけ、盗み酒をして赤い顔をして照れていた好人物であった。とうとう二日間、店で昏睡状態を続けて亡くなった。子供もなく気の毒な人だった。店や自分のことで心の負担も重ったのであろう。店員一同は自分等の将来に暗示を受けたようで、その後暗い顔をした毎日を過すようになった。

このような店の状態であるにも拘わらず、主人は相変らず商売の方はおかまいなく、市会の事で毎日のように外出。夜も遅く帰って来られる日が続いた。自分もよく市会議員の宅に、宴会の割前を集金に使をした。西賑町、今の加藤医院の門構の前の持主が、時の市会議長小森理吉郎さんの家であり、二、三度使いに行った。話はそれるが市会の実力者小森さんが、当時長堀線の電車通りが玉造まで延長する時自己の家屋敷と土地(現在の広田さんの辺り)の買収されるを嫌い、電車通りを西賑町カーブの所で曲げたと言うので、当時は有名な話であった。金物問屋博労町の万年九平さんの店にも、一、二度使いをした事があるが、万年さんは区会議員であったと憶えている。今は小森さんの家もなく、万年さんの家も博労町にはない。「売家と唐様に書く三代目」思い出して今昔の感が深い。

 話をあとに戻して主人はどう考えておられるのか、このままでは破産の一路を辿るだけだが、それまでしても市会議員として、市民の為に尽したいのか。小森さんのように利権の為に議員をやっているのか。そんなに市会議員は面白い道楽なのか。主人は時たま建設業者等から、菓子折等が届けられるが、絶対受取らずそのまま返した。聞くところによると必ずといってよい程、現金か商品券が同封してあるとの事。それ程潔白な主人なのだ。資産も商売も犠牲にして市民に尽すのがよいのか、この侭では財産は失ない家族の人達もどうなるのかわからない。奥は相かわらず女中3人、生活費を切り詰める様子もない。市会議員としての精魂を打込んでおられる主人には頭が下る思いはするが、それでよいとは思われぬ。

自分が日納さんに奉公して足かけ3年、御主人の人格と家族皆さんの暖かい厚遇、今日までの御恩を思う時どうしてよいのか‥…と言って自分の力ではどうにも出来ない。顧れば無学な自分を夜学に、講義録にと曲りなりにも学力を身に付けさせてくれた恩情等。いろいろ自分の若い判断は交錯する。時に偶々紹介所から店員が一人雇われて来た。前歴を聞くと、この人は南本町の大阪銅器と言う金物問屋におったが、どうも忙がしく朝は早く、夜は遅くまで荷造をさされ体が続かない。この店は荷造も少なく暇があって楽だ。よい店へ来たと喜んでいる。変な人だ。忙がしい店、有難いではないか。何と言う考え違いをしているのか……。

 金物屋はそれ程忙がしいのか。履物屋に比べて将来性もある。流行もあまりない。長期在庫しても傷まない。よい商売だ。自分は履物屋がよくて日納さんに奉公したのではない。主人の人格に敬慕して奉公したのだ。しかし衰運のこの店を見捨て、恩のある御主人と離れて、金物問屋を志し お暇を頂く事は余りにも身勝手ではないか。今日まで親のない自分に同情して、店員としてより以上の愛情を持って、面倒を見て下さったのではないか‥‥‥自分はどうしたらよいのか‥‥またしても悩む。主家を捨てる事は出来ないと言って、このままではお先真暗だ。どうすればよいのか‥‥‥夜も寝られず考え抜いた。だが恩情だけで一生の将来を犠牲にする事は出来ない。

遂に自分は心を鬼にしてお暇を頂く事に決心した。だがとても自分より言い出せない。かつて「方便の嘘はつけ」と釈迦も言われた。そこで自分は故郷の金沢の親類に養子に行くと言って、嘘の手紙まで金沢から出して貰い、お暇を頂く事になった。不本意な嘘をつくことはつらい。しかしそうするより仕方がなかったのだ。主人にも惜しまれた。家族の人々とも涙を流して別れを惜しんだ。しかも郷里で養子に行くと言ったからはおそらく、主人とも二度とお会いすることは出来るものではない。かくして自分は主人、家族と別れることになった。ところが思いもよらずこの御主人が4年後に他界せられて、中寺町の御寺で告別式があった。私は秘かに陰ながらお送りしたが、全くお気毒な事でたまらない気持であった。やはりお暇を頂いた時が、最後のお別れであったのである。次はいよいよ金物業界に志すのである。           (次号につづく)

戻る