2.生誕から小学校時代<夕刊売りの少年>

 私は明治三十二年六月一日、金沢市上柿木畠十六番地で西南の役に従軍したという古強者を父として、呱々の声をあげた。八人兄弟のなかの六男であった。
生まれた家は土塀に囲まれた門構への大きな家、加賀百万石前田家に先祖代々仕えた武士の家柄である。父は青年時代、江戸に出て今の士官学校の前身に入って軍人になったものの、故郷の墳墓を捨てて他郷に出る事を親族に反対されて帰国し、金沢税務監督局に奉職していた。今でもその当時の日記帳が私の家にある。
さて、平和な幼少時代を過した私は今もある兼六公園の前の、当時の女子師範附属幼稚園に通うことになった。その頃である。局を退官していた父は当時の鉱山ブームに手を出して失敗。先祖伝来の家屋敷を手放して一家離散の浮目に遭う羽目に陥ったのである。父は東京へ出、私は能登の母方の里、田鶴小学校長をして居た叔父の家に、母と妹と三人で寄寓することになった。
丁度、明治三十八年五月、日露戦争奉天大会戦に大捷を博した歴史に残る、今も尚、私の脳裏から消すに消せない日であった。その頃、和倉温泉に叔父に連れて行って貰ったことがあったが、白衣の傷病兵が沢山療養していた光景が不思議に印象深く私の胸中に残っている。

 翌三十九年四月、父が迎えに来てくれるまでの一年間、私は叔父のもとで楽しい日々を過した。私は母と共に父に連れられて東京へ出たが、妹は叔父の家で亡くなった。失敗して上京した父は森島という可成り大きな貿易商に会計として就職していたが、多くの家族を抱えた暮しは決して楽ではなかったようだ。
 八才の春、私は牛込の津久土小学校に入学した。「田舎っペ、たからっペ、明神下のハゲどんどん」と石をぶっつけられたり、なぐられたり下町の子は田舎者には冷めたかった。苦労のはじまりだった。それでも私は負けてはいなかった。裸足になり両手に下駄をもって応戦したことを、つい昨日のことのように想い出すことができる。そのうちに東京にも馴染んできたが、日露戦争に続いて随分とひどい不景気に見舞われた。交番や電車の焼討ちや、首相桂太郎が身を以って愛妾お鯉の家に逃げたのもその頃であった。

苦しい生活の中から長兄は一ッ橋高商へ、次兄は金沢商業に、三兄は薬屋をしながら夜学に通い歯科医を志した。四兄は辻家の養子として金沢に在った。不景気の割りには物価は高く、父の月給では苦しい生活の連続であっただろう。当時の流行歌に「なんだかんだの神田橋、朝の五時頃見渡たせば、破れた洋服に弁当箱下げて、てくてく歩くは月給九円、自動車とばせる紳士を眺め、ほろりほろりと泣きいだす、神よ仏よ聞き給へ、天保時代の侍も今じゃ哀れなこの姿、うちでは山の神がボタンかがりの手内職、十四の娘はたばこの工場、にほいはすれどもきざみをすえぬ、いつもお金の内務省、かくこそあるなれ生存競争の活舞台」というのがある。
この唄をみても当時の不景気がわかるというものだ。家でこの唄をうたっていて母親に止めなさいと窘められたこともあった。東京での五年間、宿替えすること七回、小学校を転々とすること三回、家計の苦しさが幼心の私にもおぼろげながらわかった。お米が高いので御飯には麦が三割も入っていて、学校へ持ってゆく弁当には恥ずかしい思いをしたものである。しかし、楽しい思い出もないことはなかった。当時、日露戦争後の軍の最も華やかなりし時代で、紀元節、天長節等には大礼服を身に着けた文武百官が栗毛の馬や馬車で参代する様は今でも瞼に浮かぶ。学校の近くに士官学校、幼年学校、砲兵学校等があって、卒業式には、明治天皇の神々しい行幸の姿を拝して、その荘厳さにうたれたのも畢生の思い出である。その頃の私の夢は軍人になることであった。

小学校五年秋、父が死去した。又、一家離散の悲運に見舞われた。
母親に連れられて三才になる弟と歳老いたる祖母の四人、汽笛一声新橋を後に、大阪にやって来た。次兄が当時三井物産大阪支店に勤務していたからである。落着いたところが中津下三番地、今の十三橋の近くであった。ところが不幸はどこまでも私達親子に纒いついて離れなかった。
次兄は一人で下宿していたのだが、当時の会社の取引先、石炭問屋の○○商店、安堂寺橋筋の○○地金商店等の現在もある大商社(特に匿名を許していただく)の招待を受けて、新町の遊里に遊んだのが病みつきとなり、借金で首が回らなくなっていたのである。そこへ居候が四人もやってきたのだからたまったものではない。いよいよ苦しくなるばかりで、なけなしの着物等をもって質屋通いをさせられた母にも随分と苦労をかけた。何としても義務教育だけは了へなければと思いながらも、兄に世話をかけることもならず、そこで遂に、夕刊を売りに出かけることを決心した。家が北野中学の裏にあたり、そこから歩いて高麗橋三丁目にあった大阪時事新報社迄通った。四時頃行き、夕刊を五厘で買って一銭に売るのである。はじめは二十部位買って売った。三十部仕入れると十五銭だけ儲かる。だが、それがなかなか売れない。
今橋と高麗橋の間の細い筋、たぬき小路を人通りが少いので、「ユーカン、一セーン」と大声を出して歩きだすのを手始めにそれから京町橋筋へと出る。人が通っているとなかなか声が声にならなかった。京町橋筋に「ねうし」というメリヤス屋があって、そこの主人がわざわざ私の来るのを待っていて一部買ってくれる。それが毎日のことなのだ。嬉しかった。梅田新道、今の朝日新聞の前を通って梅田駅前と売れそうな場所を選んで行くのだが、そんなところには申し合わせたように古い夕刊売りが縄張りをもっていて私なぞに売らしてはくれない。仕方なく、江戸橋の電車の乗客の少い場所に佇つ。なかなか売れない。九時にもなるとポツポツ売り切った仲間が帰って行く。その後へ行って売るがなかなか夕刊は減りそうにない。京町橋から更に四ッ橋辺りまで、その辺で漸やく売り切れたと思うと十二時にもなるのが普通であった。それからトボトボと北野中学の裏まで歩いて、夜中の一時近くにやっとの思いで帰宅する。大きな犬が怪しんで四、五匹も吠えつくことが度々であった。寒さと空腹で涙がこぼれる。母親が心配して出迎へてくれる。
「可哀想にお前だけにどうしてこんな苦労をさすのだろう」と泣いて慰めてくれる母が居なかったら今日の私はなかったかも知れない。

 明治四十四年の秋、小学校六年生。これではとても中学校はおろか、小学校を卒業することも覚束かないと考えて、ある日、学校を休んで就職口を探しに出かけた。梅田より南へ南へと歩いて御堂筋の北御堂さんの前にある「菊一ばり」という余り大きくない縫い針の卸屋さんの門前に立った。表に「ぼんさん入用」と書いてあったからである。表をニ三度ためらいながら行き帰りしたが、思いきって「僕を雇ってくれませんか」と這入っていった。
主人が色々と身の上話等を聞いた揚句、葉書をポストに出して来いと言いつけた。用を済まして帰ったら、おひる御飯を馳走してくれた。その時の白い飯に小芋ととろろこぶの味は未だに忘れられない。嬉しかった。これで決心がついた。丁稚になることだ。そうすれば喰べていけると考えたのである。主人は何かの縁だ、明日母親と一緒に来るようにと言ってくれたが、帰ってから落着いて考えてみれば、何も小さな縫い針屋でなくても、もっとよいお店がありそうな気がした。次の日も口探しに出かけた。なかには年を聞いて相性が良いの悪いのという主人もあったが、大抵のところでは、小さな子供一人では相手にもしてくれなかった。
丁稚入用の札をみては三軒四軒とたずねまわった末、最後に心斎橋筋清水町南入東側にあるきれいな小間物屋に這入った。今はない「えり友」という半襟屋の隣りだった。良い主人だった。縞の着物と紺の角帯を持って、明日、母親と連れ立ってくるようにと言ってくれた。家へ帰ってこのことを話したら、兄は苦しい懐ろから三越で縞の着物と紺の角帯を買ってくれた。三井物産が丁度三越の前にあったので借りることができたのかも知れぬ。ともかく兄としては餞別にと無理してくれたのに違いなかった。(次回につづく)

明治34年春写した写真。
自分(最前列中央)は満1年七ヶ月だったと思う。父(後列向かって左)は金沢税務署監督局(今の国税局にあたる)の関税課長という地位にあった。
父の右(後列中央)は長兄、その右(後列右)は次兄である。中央は向かって左から母、三兄、四兄そして向って右端の頭を丸めたのは祖母でこの人は33才位で祖父と死別、父と叔母を育て、再婚をせぬ決意をもって自ら頭を丸めたもので意志の強い人であった。
今では兄弟二人だけが残り、他の兄弟は若くして他界した。こうしてみていると想い出多い写真である。

昭和40年2月、当時社長の松本六郎翁が社内報「まつかぜ」に写真とともに寄稿されたものです。

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