3.12歳、丁稚生活の第一歩<どうぞ立派な商人に>

 心斎橋筋の小間物屋に雇われた。時まさに明治四十四年十月中旬。 自分の働きで食べてゆける嬉しさで張切って丁稚生活の第一歩をふみ出した。夕刊売りをした苦労を思へば何でも出来る。主人の言いつけはハイハイとよく働く。主人夫妻も可愛がってくれる。ところが困った事には、自分より一年上の先輩が居って、自分が余りにもよく働き主人の気受けがよい為、気を悪くしてことごとにいぢ悪くいぢめる。何としても辛抱しなければと絶対服従して居たのだが主人も見兼ねてかわいそうにと思ったか、古い丁稚を止めさす訳にもゆかず、筋向いの北村と言う帽子洋傘の店の主人に話をして、よい子だが貴方の店で使わないかと主人同志の話合いから自分も心よく承知して、小間物屋から帽子洋傘屋へと転業した。

同店には主人夫妻と十七才の息子さん七十才位のサンタクロースの様な白い髭を生やした御隠居さんの四人家族。店には徳造さんと言う番頭さん、十八才の先輩。いぢめる先輩も無く、御主人も先代雁次郎のやうなタイプの人。殊に美くしい奥さんは自分の子供のやうに可愛がって下さった。女中さんが無かったので朝は御隠居さんが六時に起きて、自分が助手で芋の皮をむいていもがゆを焚く。サツマ芋は三休橋の東詰にいも熊と言う問屋でくず芋を買って来るのだ。昔の大阪商人は食事まで倹約した。これを大阪でしぶちんと言う。名前を六造とつけてくれた。何故親が付けてくれた本名を呼んでくれないのかと情けなく思った。

朝食が終ると女中のする仕事をさせられた。九時過ぎると二階より主人夫妻が起きて来られた。店へ出る。朝の内は御客さんが少い。午後になると人通りも多くなり客も多い。主人と番頭さんがお客さんの相手となり、自分は使いに走ったり商品の出し入れをした。夜は客が遅くまで続く。店を締めるのが夜の一時になる。決して店を終うと言わない。やまを入れやうかと主人の声がかりで店を締める。夜中一時過ぎて寝床に横になり、トロトロと寝たと思ったら「起きや」と隠居に起される。御隠居は宵から寝て朝六時に起きる。主人は朝九時まで寝る。夜寝るのは主人とつきあい、朝起るのは隠居と一諸だ。少年の自分には五時間位では寝不足でつらい。夜十時過ぎるとコクリコクリと居眠りをする事がある。ボンボン(大阪の商家では息子さんの事をボンボンと呼ぶ)が自分の顔に墨を塗る。心斎橋筋大宝寺町の西南の角にやき芋屋があった。そこへやき芋を買いにやらされる。

やれ嬉しや、やき芋が食べられると勇躍心斎橋通りの十時、人通りの多い通りを大きな顔をして歩くと通行人が皆自分の顔をみて笑って居る。帰って鏡をみるといたずらにしてはあまりにひどい、いかに年少の丁稚だとて人格を無視してはづかしめるにも程がある。熱い涙がホホを伝う。居ねむりするのは悪い。併し十二才の少年に五時間位より睡眠時間をあたへぬ方が無理ではないか。親が知ったらこのはづかしめをどんなに悲しむだらうか。武士の娘に生れた母親は、丁稚に出る時別れの言葉に、どうぞ御主人大切に立派な商人になってお呉れ、どうぞ間違った事をしたり曲った心を持つて人に後指を指されるやうな者になつてくれるなと。自分は子供心に、心斎橋の人通りの多いところで皆に笑われた、併し自分が悪いので無いと心で反問した。

月給は毎月五十銭くださった。五十銭銀貨が一枚二枚と重ねてゆくうちに月のたつのがわかった。やがて年末が来た。師走の街は賑やかだった。十二月三十日、お昼に商家の例として実家にお鏡餅を持ってゆく事になって居た。家に帰って夕方までに帰って来るやうにと。嬉しかった。長兄が大阪に来て居って東野田町五丁目の八百屋の離れ家に祖母と母親と二才の弟と四人で暮して居た。母親と弟に会へるのが嬉しかった。母親も涙を流して嬉んでくれた。一時間余りの時の経つのも短かかった。弟をおぶって天満橋まで送ってくれる。どこまで来ても名残は尽きない。いよいよしばしのお別れだ。母親も弟の八郎も泣いて別れを惜む。母親と弟が手を振って居る。自分も目に涙がいっぱい。

年末三十一日の心斎橋筋は人出でごったがへして居る。其の当時は心斎橋の東詰より戎橋までの間が一番賑やかで、戎橋より南は花街であった。当時、余り金廻りもよくなかったのか三十一日ギリギリに買物をする人が多かった。帽子を買う人も三十一日の夜は店に殺到した。食事をする間も無い。中山帽、中折帽、鳥打帽とよく売れる。表の人通りがまばらになったと思ったら夜が明けた。夜通しで商売をしたのだ。明治四十五年の元旦だ(即ち大正元年)。皆で御雑煮を御祝すると寝る。文字通り寝正月だ。日頃の寝不足は元旦に解消する。新しい着物もいらない、年賀に出る事も無い、只管寝る丈けだ。
二日になると又店を明けて店番だ。心斎橋筋は美くしく着飾った人々が南へ北へと楽しさうに歩いて行く。それを淋しく見て居るのだ。東京に居る時分は貧しいながらも家族揃って百人一首やらタコ揚げをした思い出が走馬灯のやうに去来する。誠に味気なき正月だ。これが自分の五十年前の正月の思い出だ。(トラ年、昭和三十七年正月執筆) (次号へつづく)

兄弟と共に(中央11歳の松本少年)

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