6.慈母の不治の病い


 年の暮れに引越した二階に一応落着いたものの、兄弟3人失業者だ。それでも親子5人貪しいながら、どうにか大正3年、自分の数え年16歳の正月を迎える事ができた。どうして苦面したか餅を買って、お雑煮を祝うことができた。 正月3日間が過ぎると職を求めなければならない。浦江の淀川の堤防のところに江商メリヤスという会社があった。吹雪の4日、職工入用の張紙を見て、例の通り、自分で会社の事務所を訪れた。話はすぐ決まり、早速採用してくれた。多分、今の商社江商の系列工場だったと思う。

メリヤスシャツの仕立をする工場。工員は2百名位の中工場。女工のミシンがけの仕事が多いようだった。自分は仕上げ場の仕事を手伝わされた。そのうち、上役の森田という、当時の商業学校出の若い主任の方が可愛がってくれて、自分をシャツの附属品、ボタンやら袖口、糸、ミシン針などの品出し係にしてくれた。文字も充分書けない自分に伝票のつけ方まで親切に教えてくれた。渡る世間に鬼は無い。親切な人もあるものだ。自分の境遇に同情して立派な人になるように励ましてくれた。

長兄は毎日職を探しに出かけたが、職がなかなか見つからなかった。やはり学校出が、かえって邪魔になるようだ。次兄は瓦斯燈屋になった。瓦斯燈屋とは、脚立を担ぎ、石油缶を持って、毎朝各家の外燈の中のランプを掃除して石油を入れてまわる。次に、夕方にはマッチを口にくわえて灯をともしてまわる。かなり烈しい労働だ。それでも働くという事はありがたい。一生懸命だ。特に寒い雨の降る日は気の毒だった。母親も近江の織物などをして収入を得、生活も楽になった。弟の八郎は兄の自分といっしよに暮せるのが嬉しいらしく、又自分も10年も下の弟が可愛く、毎月1日、15日の休に川で小魚をすくったりして、自分につきまとっていた。

或る日、その辺には天六より野田阪神までの北大阪線の工事があり、人夫がたくさん仕事に来ていた。雪のちらつく寒い日に、人夫の一人が足を滑らして溝河に落ちてずぶ濡れになって困っていた。それを二階の窓から見ていた母親は、兄の冬シャツ上下を持って行って渡してやった。人夫は何度も頭を下げてお礼をいっていた。自分は見て驚いた。当時は自分や家では、冬シャツの一揃えは貴重な衣類なのに、惜気もなく困った人にやる。母親の偉大なる気持には、全く、今思い出しても頭が下がる。
そのうち、長兄は巡査になる事に決心した。それで教習所に入り、みんな職に就く事ができた。家の中はこれで明るい幸せな日々が訪れた。

自分も勤めは大した労働も無いので、夜はゆっくり勉強ができた。その時分、母親は自分に色々と教訓めいた事をよくいった。母は嫁入りするまで、一人娘の所以か、両親から隋分可愛がられて、その当時流行した浄瑠璃を習ったらしく、その中に出てくるセリフや名文句を引用した。
例えば、泉州信太の森の狐の子別れ、「道理で狐の子じゃものと人に笑われそしらるるなし」と子供への別れにいう名文句。狐でさえ子供と別れるのにこのようにいっている。ましてや、人間が親としてお前が人に後指を指されるような事をしてくれるなと願うのは当り前だ。お前は子供のうちでも一番苦労をさせた事を気の毒に思う。しかし、どうか決して悪い事をしてくれるな。立派な人間になって成功してほしい。正しい人間として生きぬいてほしい等々。それに似た事を繰返し、いい聞かせてくれた。

後で考えてみれば、それから4ヵ月位後にはこの世の人ではなかったのだ。
母自身が何か悟っていたのではないかと思える。弟を可愛がる事も格別であった。
江商メリヤスで勤める事3ヵ月、大分皆とも馴み、居心地もよく、毎日楽しく勤めていた。長兄も教習所を出て、巡査を奉職する事になり、難波署に勤務する事になった(今の浪速署ではない)。そこで木津鴎町にかなり大きな家、岩間という家の二階を借りた。
次兄を元の家に残して、長兄、母、弟と共に移った。その時分、母は躰が勝れず、仕方なく、折角馴んだ人々とも、恩になった森田さんとも別れを惜しんで、母親の看護と、弟の面倒をみるため、木津へ来た。

兄は1昼夜交代で勤務するのだ。母親の病気は肝臓癌と医者の診断をうけた。本人にはいわれない。胃の辺が毎日目にみえて大きく腫れてゆく。弟の面倒をみて3度の食事の世話、洗濯物、母親の看護、そして心労は言語に絶するものであった。医者はなるべく滋養をとるようにという。巡査の月給では思うにまかせぬ。鯛の刺身がよいという。階下のおばさんに聞いて木津の市場に行き、レンコ鯛の安いのを2枚におろしてくれとたのむ。こんな客はないらしい。断られるのを頼んで2枚におろし、持つて帰つて刺身を造って母親に食べて貰う。医者は、どうしてもこの病気は治らない、時期の問題だという。

こんな神様のような母親がどうして不治の病にかかったのか。やんちゃ盛りの弟は、おとなしく母親の枕元で心配そうに病人を見まもっている。自分が市場に行ったり、洗濯をしたり、食事ごしらえをしたりしている間、役に立つ賢い弟だ。
病人の苦脳は日増しに深まり、病勢の進行を示した。医者はイチヨ−ルという黒い貼り薬をくれた。無駄と知りつつ、毎日それを張り替えるのだ。今でも、自分が足の腫れた時などに医者がイチヨールをくれたら、その当時の痛ましさを思い出して、ゾーッとする。病人の死期は日1日と近づいてゆく。
(正月号にあまり陰気な話で申訳けないが実話だから我慢して下さい。) ※昭和38年1月号に掲載
(次号へつづく)

兄弟と共に(左端松本少年)



戻る