7.母への最後の孝行と職探し


大正3年の春も過ぎて、よい気候となり空には鯉のぼりがひるがへって居り、さわやかな天気が続いた。だが自分の心は暗かった。母は梨が食べたいと言ひ出した。病勢は大分悪化して苦しんで居た。母はいよいよ死の近づいたのを覚えたのだ。八人の子供を生んだ母は子供達の歯痛を療す為、戸隠明神に祈願して歯痛を封じる為大好きな梨を断ったのだ。今考えると馬鹿な話のようだが、その時分は皆それを信じて居たのだ。子供の母になってから死の直前まで食べなかったのだ。梨位食べなくても何事も無いと軽く思う人もあるだろうが、さて食べられないと思うと、よけい食べたいのが人情だ。まして好物の梨を我子等の為に断ったのだ。その梨が食べたいと言い出した。自分は思わず母親の枕元を放れてとなりの部屋で泣いた。死を覚悟したのだ、おろし金でおろして果汁を造り吸わせたら「ア−おいしい」と言ってくれた。これが最後の孝行だった。それから3日目即ち大正3年5月25日いよいよ死別の日が来た。16才で北浦家から松本家へ嫁入りして17才で母親になり49才で苦しい生涯の幕を閉じたのだ。

たくさんの息子の成功も見ず、4年前に夫に死別し2年前までむづかしい姑に仕へ、そして今日まで楽な日も無く他界したのだ。生者必減会者常離とは言い乍ら余りにも悲しき事だ。天にも地にも只1人の大切な母親。自分はどんな苦しい時でも只管に母の愛情に支へられて来た。「お母さん自分は必ず永年の教訓をよく守り立派な人間になります」と誓った。嬉しい時もかなしい時も心から自分の事を思ってなぐさめはげまして呉れた母はもう此世に居ない。余りにも無情だ。失った自分は一度に世の中が暗くなったようで途方にくれた。4年の間に父、祖母、母と死別。不幸が続いた。兄達も寄って淋しく野辺の送りもすませた。葬式がすむと次兄は浦江に三兄は東京へ、四兄は金沢へそれぞれ帰って行く。長兄は、相かわらず難波署に隔日に出勤して居る。数え年6才の弟と2人淋しい生活がはじまった。

母は幼い弟の事が一番心残りであったようだ。母の死んだ部屋で蚊帳を釣り枕元に淋しく燈明の灯がゆらいで居た。弟と2人で寝て居った。ところが夜中の2時頃即ち草木も寝むる丑満の時間、突然枕元で「八郎 八郎」と母が呼ぶのだ。ハッと思って目が覚めた。あたりを見廻したが母の姿は無かった。枕元の母の位牌の前に燈明はうす暗くゆらいで居た。弟は無心にスヤスヤと寝て居る。母は死んでも幼い弟が気になって霊魂が此の世にさまよって居るのだろう。如何に会いたい母でも恐くて朝までおちおち寝られなかった。階下のおばさんに話したら、お母さんとしては無理も無い、そう言う事はあるものだと言った。それからはよけいに淋しい日が続いた。一ヶ月程兄弟3人で暮したがいつまでもこうしては居られない何とかしなければいけない。

辻家へ養子に行って居る四兄の養父辻良吉さん 此の人は非常に好い人で死んだ母の従弟に当る人の夫で親類の関係で父が失敗して一家離散した時貰われて行った親戚だ。辻良吉さんの知人の戸田喜蠖と言う人が金沢で呉服商をして居り、四郎兄が金沢第一中学で成績優秀いつも家でよく勉強して居るのを見て居ったので自分にも子供が無いので、四郎さんの弟さんなら是非貰いたいと話がまとまり、辻の小父さんが弟を迎へに来てくれた。弟は少しばかりの着替へを持って、辻の小父さんに連れられて泣き泣き別れてゆく。幼い弟としても母と死に別れ、頼りにする兄の自分とも生き別れしてゆく気持はどんなだうう。見ず知らずの新しい母親はどんな人か、自分は涙で別れの言葉も出ない悲しさで胸いっぱいだ。幼くして両親に死別し、今又肉親の兄とも別れてゆく弟の気持はどうであらう。子供ながら覚悟はして居たようだが、薄幸な生れだこれも宿命だ仕方が無い。その弟も今は此世に居ない。

最近弟の嫁に聞いた話だが貰れて行った当時、子供への愛情を知らない両親は随分厳しい仕事をさし烈げしい折檻が続いた。たまりかねて、ある雨の降る日、番傘を持って家出をし懐かしい兄と会いたいと金沢駅より鉄道線路を伝って大阪へ向ってトボトボと歩いた。行けども行けども歩いては行けないと幼な心にも悟って又家に帰ってひどく叱られたと言って居たとの事。そんな話は死ぬまで自分には言わなかった。

此の弟は金沢第一中学を首席で卒業、大阪の阪大の前身大阪高等工業応用化学に入学、特待生として卒業、阪大に昇格、有名な丸沢博士の助手となり講師となり、阪大では図書室の主であるとまで言われ随分勉強したようだ。戸田先生に聞けばどの本はどの棚にあると言う程勉強した「随所に主となる」と言う言葉が好きであった。支那事変がはじまると鉄道隊の中尉として出征抜群の功をたて功5級の金鵄勲章を受けた。当時は名誉の軍人として帰還したが、支那大陸で感染した、カラザールと言う風土病に罹り何度か開腹手術を受け痩せ衰へてもお国の為と大学の研究室で寝食を忘れて戦時研究を続けて居たが、過労の為、昭和22年春浅き日に死去した。当時極度の貧血の為打土井君等の血液を貰った方々に御礼を申上げる。それにも拘らず薬石効なく此世を去った。今生存して居れば大した学者であらうと残念に思う。

さて弟の事で話は横道に外れたが、話を前に戻して、弟と悲しい別れをして、自分も責任のない自由の躰になった。
又振出しに戻って就職探しだ。長兄は時計の修繕を覚えて時計屋になってはどうかとすすめてくれた。どうも終日座って細かい仕事をするのは自分には不向きのように思へた。同じ職商売をするのなら洋服屋をした方がよいと思った。
紹介屋を訪れて、希望を言うと、紹介して呉れたのが江戸掘下通4丁目の西村と言う仕入洋服の仕立屋だった。一日も兄の家に世話になつて居るのもいやだったので、早速西村さんへ住込む事になった。其の年の秋初旬であった。此の家は仕入服を仕立て、伏見町の鷲尾と言う大きな問屋の下請工場である事が後でわかった。さてこれからが又苦労がはじまる。
(次号へつづく)

戻る