4.その事業観


松本六郎その人の人間性、素質は「大阪での丁稚生活」で語り尽されていると思う。次に問題になるのは 松本金物株式会社の事であろう。
 松本六郎氏に云わせると、こんなに大規模なものになるとも思っていなかった。世間の信頼を基礎にして、 せっせと働いていたら、現在の松本金物になったという。資本金が一億円、年商が百六十億円、従業員四百 三十人。大阪に本社があって東京、名古屋、札幌、仙台、福岡に各支店、神奈川(横浜)、東大阪、北陸 (金沢)、香川(高松)、広島、沖縄が夫々営業所で、その販売網は全国に拡がっていて、建築金物業界 の雄であることに間違いはない。確かこの人は大阪建築金物卸商協同組合の理事長を長年間つとめた人で はなかったのか。

  業界では人望があり、渾名は「校長先生」だったようだ。真面目で嘘がない、信用が おける、堅実だということだろう。ここに「大阪金物団地」という小冊子がある。現在東大阪市に、建築 金物、家庭金物(プラスチックを含む)釘・針金・鋼材・鋲螺・水道金具・利器工具・伸銅品その他の金 物関係卸業者のセンターが出現している。百余社の集団であるが、ことのおこりは昭和三十六年ごろ大阪市 内、北は長堀、南は道頓掘、それに東横掘、西横掘に囲まれた所謂、島の内地区の各種金物問屋四十数社 が都心の交通難、営業上の種々の支障を理由に、郊外に広濶な地域への集団移転を求める声が出たからだ。  これが日本での商業団地の第一号ということだが、松本金物も三十七のところにマークされている。 松本金物の東大阪営業所というわけだが、この団地そのものの完成には六年間の風雪があったという話だ。

   初め土地の選定。茨木から吹田、そして最後に東大阪市と三転したうちに、集団移転協議会のメンバー にも脱落者も出た。当初の百四十四社が、四十二年の完成時には八十八社になっていることからも、業界の 動きの烈しさがわかる。松本六郎氏がこの間にあってどのような動きをされたか、聞かなくてもわかります ね。

派手な活動を好まない人だから目立たないだろうが、業界の指針を支えていたことは間違いあるまい。巾百 二十メートルの中央環状線が大阪の東側を通過している。大阪金物団地はこれに添うている二万五千坪に 三十億円を投資した大阪商人の根性も偉大だと思うが、金物業界の「明日の夢」も、ここに感じないではお れない。

業界の人と(右40歳の六郎翁)


話は大阪金物団地のことに流れ過ぎたようだ。松本金物の本社社屋は昭和四十三年に竣工をみている。 松本金物としては昭和四十六年に創業五十周年を盛大に行なっているが、オイルショック以前の昭和四十八 年まで、その業績はまさに順風満帆だったのではないか。

 僕が松本金物さんを訪問したのは、確か一九七一年の暮れ、例のスミソニアン体制が出来上ったときだ った。 世間では大不況到来を口にした頃ですよ。初版の「大阪の群像」にも、このときの記事は「常に 積極経営」として書いた覚えだ。

 つまりこの人の経営方針は大地に根ざした独特のもの。合理的に物を考える人は円が十六・八八パーセ ントも切上げられたら、貿易事情が悪くなる。建築金物はそれ程国際競争力がある商品ではない。貿易が 振わなければ、内需をこれが圧迫して商売がしにくくなると、よみ勝ちだ。
 ところがこの人はそうはみない。建築金物は品種が多種多様だ。住宅産業の見透しは当分明るいとみる。 問屋たるものは多種の商品を十分ストックしておいて、迅速に需要者に供給する。長年間これをやって信 用もされている。「恐しくないじゃあないか」という実感です。

 この人の創業時代というから、大正十年頃の話。南区西賑町で個人創業の頃ですよ。大変な日照りつづき、 どの農家も旱魃で悩まされたそうだ。奈良県では溜池の水をかい出すポンプが不足して大騒ぎ。これを見兼 ねて松本青年は、専門外のポンプを入手するために、早朝から夜は遅くまでポンプメーカーを歴訪して、実 情を訴えたという。無論金物屋さんだからコネも何もなし。ところがここがこの人の成功のポイントですね。 ポンプメーカーが松本青年の真情に惚れて、専門問屋より以上にポンプを出荷してくれた。松本六郎はこれ で暴利は貪らず、用立てて、関係者から感謝されることを以って満足した。

 この精神は、関東大震災時でも、終戦当時でも同じく生きていたようだ。今次の終戦直後などひどかった ものだ。あれこそ大インフレーションです。
 松本六郎氏も創業当初の西賑町で店舗を持っていた。鍋、釜の類が飛ぶように売れた時代だ。問屋では朝 から酒をくらっていた連中もいたらしい。当時の取引は現金取引、一部前金もザラにあった時代だ。悪質の 業者は前金で一杯飲んでは次々と商品を遅らせる手をしたらしいが、この手合いは品不足時代の終焉と共に、 姿を消す運命だった。

三兄と共に(右六郎翁)


 松本六郎氏は家が戦時中疎開して河内松原にあったにもかかわらず(現住所)、ここには日曜、祭日位し か帰らず、ぼんさんと店で寝食を共にして、頑張られたという。ぼんさんも除隊帰りの人達、恐らく兵隊の 菜っ葉服を着ていたろう。大阪では梅田あたり闇市の盛り場だった。
 船場島の内の金物問屋、衣類、雑貨何一つとってもこんなに面白い時代はなかった筈だ。「物」の時代 で、その商品ルートを知っていたら誰だって銭になったからね。僕のいいたいのは、松本六郎の商法は、 何時も変らぬ「需要に応ずる」真摯な姿ですよ。
「暴利は貪らんでもいい、お世話してあげなさい」という心情に根ざしている。

最初に松本氏を訪れたのが前にも書いた通り一九七一年の暮で、すでに、その間六年も経っている。業界は 激動の一九七〇年代ですね。松本金物の売上高のグラフをみていると、しみじみさせられる。一九七三年に は前年度六十パーセントアップの百五十五億円をマークしている。一九七四年に入ると、百四十億円を割り こんで、それからは徐々に上昇カーブに移行した動きだ。一九七三年といえば、十月には中東戦争(石油問 題)、年末には狂乱物価が出現した激変期、あとはご承知の通り不況。

 「何時の時代でも、商売人は一生懸命に家業に励めばいい。道は一途、信用が唯一の売りもの」というの が松本商法だと思います。だから不況の時代でも、常に前進あるのみ、積極経営なんだ。無理はしないが萎 縮沈滞するなど、この人の頭にはない。
 ここの打土井金物部長が「ウチの強さは、コンスタントに新人を入社させ、店を日本の全土に張りめぐら している点でしょうね」と云われる。
 人材はすぐに育たない。不況といっても陽の当たる産業もあるし、地方によっては裕福な処もある。常に バランスのとれた商売をするには、持駒を豊富に持っていて、或る地方では伸びなくても他の処で伸びる、 この人間をこの支店において、販路を開拓させるといいといったことでしょうね。  松本六郎氏が北は北海道から南は沖縄まで、取引先としての四千五百軒ぐらいのその月間の動きを「取引 伝票」からみて楽しんでおられることが、僕にもよくわかる。

「最近は景気浮揚策、政府も住宅五万戸を打ち出しましたね」と問えば、「お蔭様ですね」と笑っておられ る。余り多くをこの人は語られません。
「ウチの商品はとても多品種です。住宅産業は当分、明るいです」と。
 僕はこの人に「六十年近く商売をされて危機はなかったのか?何時も順風でしたか」と問うたことがある。 「三井さん、そんなことはありません」とおっしゃる。
「何時でした? 誰が助けた?」と聞こうとしても笑っていて何もおっしゃらない。
「松本があの人のことを云っている。他にもあるじゃないかととられる」ことらしい。

「何時でした? 銀行の手形割引の際に、審査部長が丹念に見ていたら脇から、〃松本六郎さんの裏書き のものは構いません、どんどん次に廻しなさい〃眼と鼻の先でこれをみて、感激したと云われたが?」  と誘いをかけても、この人はこの手にのられませんよ。笑っていて「六十年も商売をしておりますと、 色々なことがございました。何時の時でも信用が第一ですね。皆様が松本六郎を信用して助けて下さいま した。これは銀行ばかりではありません。取引先の方も、ウチの店員もすべてにいえます」と。

   昭和二〜三年、例の経済恐慌に近江銀行も潰れ、松本六郎氏もその損害を受けられたことは確かなようだ。 「あの時はなけなしの銭を失ったから」ということらしい。僕が思うのに、商取引で一番肝心なことは決済 だ。従って資金を潤沢に持っていることは、信用されることに違いない。しかし買い占め、独占、暴利とい うことになると、天下が許さない。松本氏はこの道を歩まない。
営々として溜めた臍くり銭を、銀行の倒産 によって取られてしまった。かりに無一文になったとしても、この人には、知った人達は商品の融通をした ろう。金銭は決済の手段で、その間の融通はその人の持前のものだろうからだ。
「三井さん、長い間には色々なことがございました」この一語に尽きる。
この人の微笑、澄んだ一重瞼、これが一切を物語っているように思うのだ。(完)

戻る