10.次兄に想う「終始一貫」という言葉


 日納藤七郎で脚気に罹り、阪神打出の別荘に芝生に水かけをすると言ふ名目で、主人の暖かいお計いにて空気のよい土地で一週間程暮した。が治るどころか、益々病気は悪化した。致し方無く、店へ帰りしばらくお暇を頂いて、堺市の堺監獄の看守をして居る、次兄の家で養生する事に決めた。次兄には迷惑な事と思うが、帰る家の無い者には仕方が無い。主人にお願いして五円お金を借りて、当分の養生の費用とした。薄給の兄に金銭の迷惑はかけられないと思った。

 何故お金を借りたか、貯蓄をして居なかったかと不思議に思うかも知れないが、其の当時の船場の丁稚奉公は、仕着せと言って盆暮に木綿の着物、角帯とメリヤスシャツ上下に、少しばかりのお小遣を貰うだけで、毎月の給料は一銭も頂けない。その代り真面目に十数年も勤めて主人のお眼鏡に適ったら、別家をさせて下さると言う条件がついているのである。万一その期間に少しでも不正な事があったら、首になるのである。それまでは親元より小遣も身の廻りの着類までも送って来る。商売を教えて貰って一人前にして頂くと言う、見習奉公と言う事なのだ。自分のように親の無い者には、どうしてもお金の入用の時は、その必要の理由を言って借りるのである。今の若い方は、凡そ理解の出来ない話であるが、それでも当時は、奉公に来る少年がいくらでもあったのだから仕方が無い。

堺の兄は、兄弟思いの親切な人であり、心よく迎えて下さったので嬉しくて涙がこぼれた。此の兄は前にも書いたが、金沢商業を卒業すると、三井物産大阪支店に入社し、将釆を嘱望せられ勤務して居た。若くして一人下宿して居たので、多少酒と女にお金も使い借金も出来て居たのであったろう。ところへ父が死んだので、東京より祖母、母、弟、自分と四人が居候にやって来た。その為に生活はいよいよ苦しくなり、借金も多くあったようだ。そこで会社を退職し、東京へ行き長兄に大阪に来て貰った。会社でも将来ある青年社員の退職を惜しんだが、どうにもならなかった。其後東京で不景気の為、土工になり、新聞配達をやり、台湾巡査を志願した為、大阪の母に居所がわかり、母の病気の通知を受けたので、筆とエナメルを持って東海道を外燈の文字を書き乍ら歩いて大阪へ着いた。大阪ではインチキ興信所・瓦斯燈屋、そして堺監獄の看守と、丁度自分が世話になったのは堺時代だった。

其後も小山セルロイド会社営業部員として重要な地位を得、自分でセルロイド会社設立の計画に失敗。大阪南区役所の戸籍係に就職、次に石版印刷の版下の文字書きとなり、弟子も二人育てたが、遂に病を得て一生を終った。何をさせてもよく出来る人、苦労を重ねただけに人間が出来て居り、愛情の深い人であり、才能もあり文筆に長じどこに勤めても重宝がられて、重く用いられた人だ。例えば看守をして居る時でも、試験も通り看守長の席が次に待って居るのに退官。南区役所でも係長になる一歩手前で退職した。そして一生転々と職を替えて苦労を続け、折角自分の天分を持ちながら成功せず此の世を去った。此の兄は生前自分によく話した事は、もし三井物産に続けて勤めて居ったら、少くも部長以上になって立派に成功して居ったものをと残念がって居た。自分は「終始一貫」と言う言葉を若い社員の方に言うが、此の兄が三井物産で終始一貫勤続して居たなれば、幸せな人生を送って居たろうに気の毒な事であった。

「前車の覆がえるを見て 後車の戒とせよ」格言のある通り自分にしてみれば失敗した兄の為に、よい教訓を得て今日まで間違いの無い人生を送った。さて話は兄の事で横道に外れたが、敢えて兄の恥を書いて若い方々に読んで頂く事は、兄には済まないが、此の記事を参考に将来に対する後車の戒ともなれば幸甚である。

 さて話を前に戻して、堺と言う所は暮しよい土地で家賃も安く物価も安かったようだ。兄の家は家賃の割合に広い家であった。似た者夫婦と言うか嫂(あによめ)は心の優しい人で、親切に食事等も気を付けて栄養も充分とったので、半月程して九月に入り、朝夕大分涼しくなった時、病気も全快した。養生して居る間も、兄は色々と人生の事共教えてくれた。親切は身にしみて有難く思った。兄夫婦に別れて、又元の日納さんに戻った。意外に早く元気に戻ったので、主人をはじめ、特に子供さん方が飛びついて喜んで下さったのには、家に帰ったように嬉しかった。

 毎月十六日に、平野町御霊神社の縁日で夜店が出た。勝手に夜の外出は許されないが、小ぼんちゃん、中ぼんちゃん、こひさん、中いとさん等にせがまれて夜店を見に行くのが楽しみであった。自分は信用もあり、子供達も自分で無いといけないと好いて下さるのも有難かった。植木屋、古本屋、飴菓子屋、オモチ屋等々屋台店も出て居り、殆んど一銭位で買えた。子供さん達も一銭の買物が楽しいようであった。御霊神社の境内に文楽座があり、寄席が並んで北側にあった。文楽座には常時人形浄瑠璃がかかって居た。亡き母は、常々「大阪には文楽座があり、人形浄瑠璃が見られる。折角大阪に来たのだから一度見たいものだ」と口ぐせのように言って居た。これ丈は生前に一度見せてあげたかった。今少し達者で居てくれたら喜んで貰うものをと、かえすがえすも残念に思った。(次号につづく)

兄弟と共に(前列左から次兄・長兄、
後列左から
六郎18歳・八郎)



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