11.船場商人のしきたりと人生勉強


 前号で文楽座の事を少し書いて稿を終った。其後御霊文楽座は、四ツ橋近松座の跡に改築して文楽座となり、天皇陛下の天覧を賜り、郷土芸術として、大阪の面目を施した。戦災により焼失したが21年復活、その後31年に道頓掘へ移転、文楽座となり、今日では朝日座とかわった。私が今でも文楽を愛好するのは母の影響であり、少年時代より好きであって、今でも文楽会員として後援している。文楽の義太夫を聞き人形を観るときは、母への思出が深いのである。社員の皆さんにも、たまには郷土芸術として観賞して頂きたい。

さて健康をとりもどしたので、又丁稚として店で一生懸命に働いた。商売の事丈けで無く、市会議員としての主人の書生のような仕事もあり、人生の勉強になった。主人は前にも書いた通り岡山の人であり、時の大政治家国民党総裁犬養木堂翁の信奉者であり、市会でも野党の議員として重きをなして居られた。よく二流新聞のゴロ記者の訪問を受けたが、居留守をつかうのも自分の係りで苦労した。はじめのうちは、いやな訪問客と知らずに取次いでしかられた。招かざる客をよく見分けて取次がねばならなかった。翌年市会議員の改選があった。サアたいへん。自分は店の仕事を放って置いて、選挙の手伝いだ。当時町会のやうなところは、衛生組合と言う事務所があって、今の赤十字奉仕団のような役目をして居り、町には世話役がたくさん居られた。走り使、連絡など皆自分の仕事だ。主人は東区より三級候補者として出馬した。

 当時の選挙有権は、国税の納税額により一級、二級、三級と三段階になって居り市税は国税の附加税となって居った。
国税附加税即ち市税を納めた者が、市会議員選挙の有権者である。一級有権者は東区で10名位、二級は100名位、三級は500名位と記憶して居るが、何分50年前の数字に間違いがあるかも知れない。主人は三級で出馬した。当選の得票は一級で4、5票か …これは話合で殆んど無競争で当選、二級も楽だが三級は可成りの得票を必要とし激しい競争であった。今と違って街頭で連呼するでも無く、会場で演説をするのでも無い。書状の運動、運動員が可成り動いて居り、どのような事で票集めをしたのか違反すれすれの様に思われた。選挙当日になると、東区役所の前で候補者がズラリと並び、米つきバッタのように何度も頭を下げて、愛嬌をふりまいて居た。主人もその通りで、それまでして市会議員になりたいのかと、何か情けなく思った。当日来客、運動員等に出した折詰弁当はおびただしいもので、弁当がらを秘かに捨てに行くのに苦労した。主人は芽出度く当選したが、莫大な選挙費用を使ったのであろう。間もなく一番奥の倉が人手に渡り、打出の別荘も売却、別荘番も解雇になり、何か割り切れない気持であった。

3人の女中が行儀見習で来て居るので、1年位でお暇をとって、故郷へ帰るのが多かった。女中の出入が多い為か、女中専門の口入屋があり、中橋筋に北しほや、中のしほや南のしほやと3軒あった。1人お暇をとって帰ると、代りを連れに行くのが自分の仕事だ。なるべく健康で上品で美人など注文がむつかしい。来る人は、子供が多いと難色を示す。よい娘を連れて帰ると、ご寮人さんのご機嫌がよい。小豆島では、一度大阪船場で行儀見習をしてこないと嫁入出来ないと言う習慣になって居り、良家のよい娘さんも、小豆島からよく来た。

毛馬閘門の近くに下駄の棕櫚表を造る部落があって、時々品物を仕入れに自転車で行くのである。冬の極寒の日、池には氷が張って居る。毛馬の閘門より流れて居る巾3メートル位の小川で水は急流だ。その川の中で、若い人が数人、川の中へ入って晒した布を水洗して居るのだ。今なれば、ゴムの長靴をはくところを、素足で氷のような水の流れに、太股まで水に浸し真赤にして、「シーツ シーツ」と掛声をして洗って居るのだ。思わず総身が引き締る思いをした。職業にも色々あるものだ。このような厳しい仕事にも、いやな顔もせず元気に働いている。自分はシャツを着て足袋もはいている。無論着物も着て居ながら寒さにふるえて居る。あの人達の事を思えば有難い。寒いといぢけてはいけない。寒さに負けないと自省した。

寒い雪の降る晩であった。
夜中の2時頃呼起された。ご寮人さんが産気づかれたのである。産婆を呼びに行く。蒲団を離れ座敷に運ぶ、寒気は身にしみるがこんな事位は平気だ。「艱難は汝を玉にす」だれにでもいやな用事を言い付けられても、いやな顔をせず気持よく用事をはたした。ご寮人さんも自分に頼みやすいのだ。他人から見れば、なんと馬鹿な奴と思って居るかも知れない。自分はこれでよいのだ。人の喜ぶ事をすれば必ず自分が幸せになると思い歯を喰いしばって、寒さに堪えた。生れた赤ちゃんは雪の夜に生れたので雪子と名付けられた。2、3ヶ月経つと其の名の如く雪のように色の白い可愛いい赤ちゃんだった。自分によく懐く。抱いて大阪の子守唄を唄うと喜ばれた。大阪の子守唄をご披露する。

「♪ ねんねころいち天満の市に、大根揃えて舟に積む。舟に積んだらどこまでゆきやる。木津や難波の橋の下、橋の下には鴎がいやる。鴎とりたや、おとろしいや ♪」

 社内のお父さん社員たちにご希望があれば、節廻しを伝授する。主人は相かわらず宴会で遅い帰宅が続いた。商売は殆んど番頭任せで市会議員の仕事に懸命のようであった。尊敬する主人であるが、これでよいのかと不安に思えた。その内に番頭さんが遣い込みをした。どうも近頃、お客さんとのおつきあいだと言って夜更けてから、赤い顔して帰って来る夜が多くなった。悪事が発見された。大した事でもなかったようだが解雇された。親類の身元引受人が来て、平あやまりにあやまって、番頭は哀れな姿で暇をとって帰って行った。13年勤めた番頭が遣い込みをして首になった。もう5年位辛抱して勤めたら、のれん別けをして貰って別家も出来るのに、船場に奉公する者の殆んどがこの悲しき運命をたどるのではないか。

船場に奉公してはじめは何吉と呼び無給、20才になって何七と名前が変り羽織を着るのが許されはじめて1ヶ月3円位の給料が貰えるようになる。24、5才になると番頭に昇格、月給が7円位になり名前の下に助がつく。そして4、5年真面目に勤めて、のれん分けをして貰い嫁を貰い別家をするのだ。先づのれん分けまで勤めあげるのは、50人に1人位で、あとは途中で棒を折るか、遣い込みをして首になる。のれん分けまで勤めあげるのは容易でない。よほど意志の強い人で無いと、番頭さんのように、酒と女の誘惑に負けて十何年の苦労を棒に振ってしまうのだ。自分は強い信念をもって番頭さんの二の舞を絶対せぬ事を強く決意した。

夜学は選挙で忙がしく、1ヶ月程休んで出席したら教科書の講義も、大分先へ進んで居り続けてゆくのが無理と思った。折角病気が直って健康になったのに、又無理をして過労と不眠と栄養不足を続けるのは無理。せめて過労と不眠を無くしたいと思った。そこで講義録を勉強する傍ら、雑誌を読む事にした。夜は暇がある。他店員達は将棋を楽しんで居たが、自分はめったに加わらず、読書を専らにした。実業の日本はよい雑誌であった。増田義一社長の処生訓が毎号掲載され、倫理道徳を説き、英国の紳士紳商道を教え、実に立派な雑誌であり、今日まで間違いなく人生行路を続けて来たのも、この雑誌の教えに負うところ大であると思う。其の当時の記事に徳川家康の遺訓があり、今日まで自分の座右銘としている。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常に思えば不足なく、心に奢りおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。勝つ事ばかりを知って、負くる事を知らざれば害其の身に至る。おのれを責めて人を責めるな」
家康公歿して350年後の今日、遺訓は生きて居る。併しこの訓を理解し実行出来れば大したものである。 (以下次号)

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