13.18歳、建築金物業界・今西商店に住込む


 さて、金物屋を志して、日納さんより御暇を頂いたが、親の無い自分には帰る家が無い。幸いその頃長兄の結婚した先が浪速区恵美須町3丁目に多田金物店を経営して居った。今日の赤川町の多田金物店は同じ店であり当主の多田真一氏は兄嫁の甥に当る人である。間ロが5間奥行が20間位の大きな金物屋であり、大阪市内でも屈指の金物店でもあった。

 同店は昭和20年3月の戦災で家を失い現在の赤川町へ引越されたのである。兄嫁さんは実によい人であり、商売の好きな人であった。つい4年前に81才で他界せられた。自分も生前はその御恩を思い、母親に対するように親切にしてあげたので非常に喜ばれ、私を又自分の息子が成功したように喜んでくれた。兄は戦前昭和11年のよい時代に55歳の若さで永眠した。当主真一氏は人格者であり、兄夫妻に手厚い孝養を尽された。自分としても感謝して居る次第である。

 話は横道に外れたが、話を前に戻して、兄夫妻は自分の寄寓の申出を快諾してくれた。当店は丁稚2人と夫婦で随分忙がしくしていた。あたかも当時近くに新世界が出来て、附近は発展途上にあり通天閣(現在の通天閣は戦後新しく出来たもの)ルナパーク等繁華街が出来て、商売はいよいよ繁昌、猫の手も借りたいような時であった。自分の来たのを歓迎してくれた。就職というよりも忙がしくしている様子を見兼ねて、しばらくは手伝ってあげる事にした。兄はこま鼠のようによく立働く自分をたいへん喜んでくれた。私は出来るだけお役にたちたいと、忙しいまま乱雑になった在庫商品の整理。帳簿も品物を売った都度売掛帳に付けるのを当座帳に先ず付けて夜分、客の空いた時をまって売掛帳に付ける事に改める様提案して採用せられたり、又銀行に使してみて、入金はともかくとして支払日等にいちいち銀行より現金を引出して支払っているのを知って往復の危険もあるので当座取引による小切手の支払方を提言、山口銀行大国町支店と当座取引を開始して喜ばれた。

 1週間も手伝している間に、金物屋はよい商売だ、第一商品の流行が凡んど無い。在庫がホコリまみれになっていても、品物さえ揃っていれば客は不平もいわずに買って帰る。朝から夕方まで客の絶え間も無い。履物屋と雲泥の相違だ。昼間は忙がしく問屋とゆっくり仕入の話も出来ないので、問屋の番頭は夜8時頃より来る。こちらの夕食をすませて一息ついた頃を見計ってやって来る。特に夜来るのは、器物屋(以前は余り家庭金物屋といわなかった)天満天神の近くに西田という問屋(西孫本店の別家)の番頭だ。横で聞いていると、その人の注文の聞き方に感心した。例えば取扱商品を魚屋か八百屋の御用聞きのように余談を交えながら、次から次へと取扱品を並べてゆく。バケツはありますかバケツでも各サイズをいう鍋茶瓶等々実に根気よく上手に注文品を引き出す。それがすむと持って来た見本を出す。注文する側でも楽だ、知らず知らずの間に可成りの注文をする。品物も皆揃う。存分の注文を聞いて10時頃引揚げて行く。成程このようにして注文を聞くものかと感心。非常に参考になり自分も後年参考にして大いに役立った。併しこの問屋も今は無いようだ。

 外に二、三器物の問屋も来ていたが驚いたのは、その配達である。たいてい夜分の配達で早くて7時か8時、おそい時は夜中の12時も過ぎてやって来ることがしばしばだ。こちらは表戸を締めて寝ていると表戸をたたいて配達の品物を降す。16、7才の丁稚が1人か2人当時の大八車、金の輪の入った肩引の車。提灯を下げて重い車を曳いてホコリにまみれてやって来る。顔色も悪い、大分疲れて居るのだろう、今と違って道路は舗装もして無い。デコボコ道をカ限り引いて乗るのだ。あまりにも、哀れだ、牛馬同様だ、これも人の子、如何に奉公といえど、主人は肉体の続く限り働かすのだ。両親は知っているのか、このような事を続けておれば、粗食と過労でやがては疾病して帰国するだろう。

 当時はこのような勤めでも奉公する者があったのだ。明治末期の生めよ殖やせよの急激な人口増加がこの結果になったのかも知れない、小学校を卒業すると皆働きに出たようだ。雇入れる側には好都合であったろう。薄幸な自分には激しい憤りを感じた。自分がもしも将来店主になった場合このような無情な人間でないようにと決心した。その時代にはこのようにせねば経営が成り立たなかったかも知れない。聞いて見ると器物の卸屋は皆このようなものだと兄はいった。余り永くお世話になってもいけないので他へ就職に出かける事にした。自分があまりよく働くので惜しまれて、この店で永く手伝ってほしいともいわれたが、建築金物専門問屋に行く希望は捨てられず、心苦しくもお断りする事にして、いよいよ建築金物業界に志す事にした。そこで建築金物問屋はどこがよいかとたずねてみたら、大阪で一番大きな問屋5軒を教えて貰った。順慶町3丁目西孫商店、安堂寺橋通2丁目日垣太市郎商店、安堂寺橋通4丁目大塚商店、清水町小野藤商店、安堂寺橋通堺筋角成瀬平兵衛商店、その他中小の問屋も可成りあったが、一応一流の問屋は5軒であった。その内西孫大塚は凡んど洋金物(当時高級金物は凡んど欧米の輸入品)の取扱で、申入れても雇入れてはくれまいといわれた。そこで例によって体当り就職、独得の手段だ。

 先ず最初に成瀬平兵衛商店に行ったが、見事断られた。次は八幡筋堺筋角、橘佐商店に就職方を申入れたがこの店もだめ。その次が日垣太市郎商店、大きな店だった。表から入って行くと番頭の奥村忠蔵氏(今の奥忠金物社長)が帳場より胡散くさそうにジロツとにらんでいる。店先で深見徳次郎氏に来意をつげると、よろしい明日までに主人に相談しておく、と親切にいってくれたので、翌日訪れると、折角だが今は不要と断られた。後日深見氏にその時の話をすると、実は奥で主人と相談したが奥さん(今の日垣太市郎会長の母堂)が人の紹介も無く一人で就職を申込んで来るような少年はしっかりしすぎて、末おそろしい、断りなさいといわれたとの事だった。あちこちで断られると、一人で直接訪れても、採用してくれそうも無い。仕方無く紹介屋ののれんをくぐる事にした。今は無いがその当時現在の内安堂寺町粟井鋼の東へ二、三軒目に紹介屋があったのでそこの世話になる事にした。不思議なもので、永和工業の内田社長もこの紹介屋の世話で久宝寺町の袋物屋に就職したといっておられた。奇しき因縁である。

 はじめ紹介してくれたのが安堂寺橋通り1丁目金谷商店という器物屋だった。紹介屋では器物屋とは言わなかった。主人は心よく採用してくれたが、自分の希望する建築金物で無い事をいって失礼した。又引返して建築金物問屋で無いと困るといって尋ねたら、1軒だけあるが、貴方の希望にかなった問屋では無いように思うといってくれたが、そんな贅沢言っておる場合で無い、それでもよいと出かけて行ったのが、今のご主人、安堂寺橋通1丁目箒屋町東北角今西佐兵衛商店であった。どんな店でも、がまんしなければいけない。この店を外したら他に行く店が無いのだ。主人に会って見ると成程何か少しかわった、商人らしく無いように感じた。店頭は何か閑散として活気が無かった。

それでも明日から来てくれるようにと採用してくれた。帰って兄夫妻に話したら、たいへんな店に就職したと驚いた。業界でも旧弊な店として有名である。それでも行くか、といわれたが、自分としてどんな店でも誠意を尽して働いたら、必ずや自分の力でよい問屋にして見せる。
建築金物の勉強も、一生懸命にやったら、出来ぬ事は無い、と決心して今西さんに店員として住込む事に決心した。多田さんには半月居候したが、充分報ゆる事が出来た。兄夫妻も自分が店を手伝っている間に見違える程美しくなり整頓も出来たと喜んでくれた。自分としても短い期間であったが、たいへん勉強にもなった。兄夫妻は自分の前途を祝して別れを惜しんでくれた。

 思えば今西佐兵衛商店に就職して建築金物業界に入ったのは今より48年の昔、大正7年晩春であった。なる程多田さんでも、紹介屋でもいった通り、随分かわった店であった。建築金物とは名ばかり、主として洋釘針金をはじめとして火造和金物で洋金物は極小量であった。今西さんは小売商の毛の生えた程度、義理にも建築金物問屋といえる店では無い。何と自分は不運であろう、色々と職を求めて18歳の今日まで思いかなわず、又しても不本意な店へ就職しなければならなかった。この店で何を修得出来るのか、教わるものは何であろう。併しここで迷ってはいけない。教えて貰う何も無いとすれば、自分で研究すればよいのだ。只一筋にこの道を進むのだ。講義録も止めた、夜の勉学も止めた。そして今西佐兵衛商店繁栄の為に努力するのみと決めた。このように決心して見ると、前途は明るい気持になり今西の店員として満足した。 (次号へつづく)

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