14.此の道一筋に・・・


 大正7年の晩春、満18歳にして建築金物業界に志して、今西佐兵衛商店の店員として住込む事になり、名前も与吉と主人は付けてくれた。紺の厚司に黒の角帯を締めて、新しい人生に向って発足する事になった。船場の商家では、必ず呼名を付けてくれる。本名は呼ばない。何か馬鹿にせられたようだが、永年のしきたりでもあり、皆当然の事と不満にも思わなかった。併し、そんな事はどうでもよい。此の道一筋に自分の天賦として邁進するのだ。もっともその後一ケ年半後には、与助と名前がかわり一躍番頭になり、店の全責任を負って活躍するのだが、この話は追って後へ書く事にする。自分を雇って下さった主人は楢吉と言って、其後先代二代目佐兵衛さんの没後三代目佐兵衛を襲名せられた。

 社員で知って居る方もあると思うが、昨年の春頃までは腰の曲った老人の佐兵衛さんが杖をついてよく会社に来られた。今日では外出も危く、石切の文化住宅に余生を送って居られる85歳の老主人、77歳の奥さんと二人淋しい余生を送って居られ、晩年非常に御気の毒な生活をして居られるのである。色々と事情によることながら、今日では世継の子供さんも無く自分も出来る丈け御世話をして少しでも老後をお幸せにしてあげたいと思って居り、お二人も只管自分を頼りにして居られるのである。何故船場で先祖から譲り受けた資産と立派な老舗を継がれた三代目佐兵衛さんが斯様な晩年を送られるのは、運不運はあるとしても自らこのような人生行路を辿られたのでは無いのか。 自分は50年近くおつきあいとお世話をしながら自ら顧みて反省、間違いなきを得たのである。川柳に「売家と唐様に書く三代目」とある。前主人の日納さんも今は無く、息子さん達もどうして居られるかと電話帳を調べて見るが、日納と言う名前は見えない。淋しい事である。このように昔の船場問屋は今日では姿を消して居るのは少くない。今日では問屋は皆法人組織になって居り、ことに戦後、経済界の画期的な変動は従来の企業経営から近化経営へと革新し、市内の企業番付も大きく塗り更えられてしまった。

 さて、余談はさておき話を前に戻して、当時の主人楢吉さんは奈良市の生れにて幼少の頃今西家に貰われて、寺小屋で習字や算盤を習われたらしく特に毛筆の文字は達筆である。若奥さんのすがさんは平野の大きな材木屋の末娘であり、スエと言う名を今西家へ嫁入りしてから二代目佐兵衛さんが寿賀と名前に替へられたとの事。何れにしても、船場の商家は人の名前を替へるのが好きなようだ。

 清水谷女学校の5期生で、昔から清水谷女学校は花嫁学校として有名であった。雨の降る日等は人力車で通学したり、お里の柳家では末娘で両親の愛情も深く愛娘であったと聞く。楢吉主人は36歳、若奥さんは8つ下の28歳の美しい人で安堂寺橋通りでは美人の奥さんとして評判が高かった。旧弊な家庭には凡そ不似合な人、寺小屋で読み書きを習った主人と近代的な教育を受けた奥さんとではどうも不釣合なようであった。名門同志の結婚でその為か若奥さんには不仕合せの様子でもあった。

 当時の今西佐兵衛商店は古い暖簾と老舗をほこる名門であり、初代今西佐兵衛さんは徳川時代の末期、松屋町筋の松屋と言う仏壇屋より別家をして独立、釘金物商として成功、安堂寺橋箒屋町東北角に150坪の店舗と借家を建て業界に大をなし、立派な功績を残された成功者であったとの事である。二代目今西佐兵衛さんは当時70余歳の老人で我が侭な人であり、親旦那と呼んだ。奥座敷に隠居して好きな事をして悠々と自適、実に羨ましい生活をして居られた。

 短歌を詠み俳句を作り、謡曲、歌舞伎、等々実に趣味が広く、外出しては能楽、歌舞伎、文楽の観賞など実に幸せな人で心のままに楽しく余生を送って居られた。老人ながらなかなかの好男子で先代鴈次郎の面影があり粋人であった。道頓堀の大佐と言う芝居茶屋へよく行かれたようだった。時々自分を奥座敷に呼んで、和歌や俳句の話やら歌舞伎の話をよくして下さった。実に博学で色々の事を巾広く知って居られて、よい勉強になった。店でいくら忙がしくして居ても奥より呼ばれたら鶴の一声で待ったなしで行かねばならない。「話上手の聞き上手」と言うが、言われる話を相槌を打って聞いてあげると非常に喜んで、羊かん等を出してねぎらって下さった。気侭な人であったが一面人なつこい人であり今思い出しても懐かしい人である。

自分としても耳学問であり、聞いて居るとよい勉強になった。実に気位の高い人で町内会に安一会と言う親睦の為の会があったが安堂寺橋通一丁目の皆大きな問屋の御主人の集会であり、集会の時は会場の料理屋の座敷で、いくら遅れて行っても必ず床の間の正面に座る、もしも床の間の正面に席が明けてなかったら、さっさと帰って来られたという有名な町内での話であった。それ位家門の威厳を持って居られた。老婦人はお家さんと呼び後妻に来られた人であり無論子供は無く良家より嫁ついで来られた人で60歳余りの上品な人であった。しかし親旦那との仲があまりよく無く親旦那が癇癪をおこして夫婦仲が非常な状態になった時はよく自分が行って親旦那の気嫌を直してもらったものである。そんな時自分は重宝な存在であった。

 若旦那楢吉さんは少年時代から気侭な養父の2代佐兵衛さんに仕え只管養父の気嫌をとり結び如何なる事も絶対服従して今日に至った人でそれで必ずしも養父との仲がよくなかったようだ。このようにして主人となった楢吉主人はどうも商売には不熱心で商売は凡んど5人の店員に任せきり。一面、信仰に厚い人であり、数多くの神仏に信心しておられ、考えようによっては信心道楽とでも言えるだろう。或は迷信とも言えるかも知れない。先ず1ヶ月に1度は比叡山の無動寺の弁才天、これは京都白川よりわらじを履いてお参りするなかなかの苦行だ。

 京都醍醐寺には世話方として此のお山の上に准提観音がお祭りしてあり月に何度かお参りする。醍醐寺までは頼母子講の世話方もしていて落札した金で借家を建てる。商売の運転資金が不足して居ても資金は極度に押える。又掘江に不動さんがありその御堂に祈祷師が居られ、その人は常時今西家に出入して居り病気になっても医者にかからないで加持祈祷で直すという、ところが或る夏福井県武生より来て居った店員が高熱を出して病床についた。主人は例によって不動明王の加持祈祷によって治すと言われたのでこれは大変だ自分は断固として反対し、医者を呼んで診察して貰ったら腸チプスの様な状態で放って置いたら生命にかかわる重症とのことだった。

 もしも医者にかからなかったらどうなったろうと実に危険な事もあった。旦那寺は椎寺町北入東側の龍徳寺と言う禅寺、内安堂寺町には宝仙寺と言う尼寺があり月に何度か祖先の命日にお参りに来られた。6年に一度は山伏姿で大峰山にもお参りせられ、其の他多くの神仏によくお参りせられた。当時自分は何を祈念して居られるのか商売繁昌であったら今少し商売熱心にやってほしいものだと思った。併し自分達には悪い面ばかりでも無かった。順慶町1丁目北側にお寺があり愛国会と看板が出て居った。その寺の住職は梅田無学と云う方で、若い時比叡山で修業して阿蘭梨と言う天台宗の位を持って居られると聞いた。白髭の老人で風格のある坊さんであった。

 その梅田無学師が週に2度位2階で店員を集めて般若心経の講義をして下さった。全部終った時私達はお寺で受戒を受け自分は無邑と法名を頂いた。又中寺町の地蔵坂の角に法雲寺と言う禅宗のお寺があり毎月京都臨済宗妙心寺より間宮英宗と言う有名な高僧が来られて碧巌録の講義を3年間に渉り勉強する事が出来た。私にとっては一生を通じ有難い処世訓ともなり、今日に至るまで兎も角間違いの無い人生の道を歩いて来た、と今更ながら今西さんの仏教に対する理解のお蔭と感謝して居る次第である。

 今西家の4人の家族はそれぞれに違った性格の持ち主の寄り集りであり、我侭な親旦那、優しいが強情な気性のお家さん(老婦人)とで凡んど外出がち、家に居ると気嫌が悪く若奥さんとよく喧嘩をする若主人、若主人と気性が合わず新しい思想の持主インテリの若奥さん、これでは4人の家族が円満に暮して行くのは無理だ。その4人の間に入って皆より好かれて居る自分、随分気骨の折れる事だ、4人の家族が少しでも和やかにと、念頭に明け暮れる自分であった。未だ書き足らない事もたくさんあるがこれ以上書くのは遠慮したい。

 今回の新年号に商売の事を書かずに何故今西家の家庭の事を書いたか、こんな事より商売の事が皆さんは知りたく思って居られると思うが、前号にも書いた通り旧弊な今西さんとはどんな家庭なのか船場旧家の奉公人の環境の有方等を書いて次に商売の事を書く事にする。無論此の記事は商売の事に関連があるので御了承願いたい。(完)(「社内報・まつかぜ第16号」寄稿・昭和42年1月)

業界の人と(右21歳の六郎翁)


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