5.14歳、雑草のような苦しい生活


山本有三の小説で「路傍の石」を読んだ事があるが自分の少年時代はもっと厳しいそんな生やさしいものではない。道端で人に踏まれてもふまれても生き抜く雑草のような苦しい生活が続くのだ。

大正元年、十四才の秋も終りに近づいた。印刷屋の工員も道の遠いのと帰る時間が遅くなるので近所の人が気の毒がって近くによい働き口があると世話をしてくれた。蒲生町にある小さなメリヤス編工場だ。受取り仕事で一日三十銭位になるとの事だった。印刷工がメリヤス編工と変った。此の仕事はシャツの袖口に付ける伸び縮みのするゴムと称するシャツの部品を編む仕事だ。十号ボール盤を少し大きくした位の手廻しの編機械を終日廻し乍ら織るのだ。無論動力は無い。編賃が一貫匁で二十五銭、朝八時より夜七時頃まで殆んど休み無くハンドルを廻し続けて一貫二百匁位が自分の体力の限界だ。どう考へても十五才の少年には無理な労働だ。

しかし自分だけではない。外にも十五、六才の少年 四十才位のおばさんたちも働いて居る十人余りの小さい工場だ。今日此の様な工場があったら労働基準監督局が許さないだろう。併しながら少しでも多く稼いで家の生活を援けねばならない。体力の続く限リハンドルを廻す。夕方になると綿の如く躰は疲れる。長兄は黙々と砲兵工廠に通勤している。家賃の安い家があると言ふので蒲生町の裏長屋の一軒を借りて最低の生活が続く。

ところが我等一家に又不幸が訪れた。当時五才の弟八郎がジフテリアにかかったのだ。町の医者に看て貰ったが風邪とのみで診断をあやまった。弟は苦しい咳をしている。母親はジフテリアではないかと医者に進言した。医者は弟の咽喉を視て驚いた。八人の子供を育てた経験を持つ母親は町の若い医者より偉いと思った。ジフテリアは放って置くと刻一刻死に近づく時間の問題だ。血清注射をするより生命をとり止める事は出来ない。医者は貧乏と知って血清注射液を道修町へ行って買って来いという。なけなしの財布をはたいて自分が勝手わからぬ夜道を急ぎ道修町の薬問屋で注射液を買って来て弟の生命を救う事が出来た。自分の命に替えてもと念じた子を思う母親の涙を流して喜ぶ貴い姿はいまだに瞼に残る。

ジフテリアは伝染病だ。避病院へ入院せねばならない。ところがその病院たるや名ばかりにて病院と言うより伝染病隔離所といったところ。場所は今福、当時は畑のまん中人家より離れて実にきたない平家が並んで居り五百坪位の土地を針金で囲んであり医療設備もなければ医者も居らず老人夫婦が別棟に居り心付けもせぬ。自分等には意地悪く冷い目で見ている他に患者は一人も無く幾人か死んで行ったウラ淋しい幽霊屋敷だ。母親と自分、患者の弟と三人。医者は毎日近所から委託を受けて一日一回診察する全く不親切なもの。その時代は今日では考へられない事だった。食事は焚けない。外より弁当屋が竹の皮に包んだ味気ない食事だ。半月程おる間に弟も全快したので退院した。

悪い事は重なるもので家に帰ってみると母親がいなかったので世話が出来なかった為か祖母が病気で床についていた。老すいの為か一カ月程病んで死去。気の毒な晩年を終った。祖母は武士の家に生れ祖父と結婚して父と叔母を生み間もなく明治八年祖父と死別した。祖母は三十五才位で後家になり再婚をせぬ為頭髪を剃り落し尼の姿で信仰と共に生涯を送った意志の強固な人であった。自分が仕事を休んだのと病院の弁当代祖母の葬式費、いよいよ貧乏は一層深刻になった。借金取りは毎日詰めかける。断っている母親の苦脳は痛々しかった。自分は必ず成功して気の毒な母親を大切に楽な生活をさせてあげたいと強く心に誓った。

その時に東京へ行って行方不明であった次兄が台湾巡査を志願したので原籍地へ問合せがあり本人が横浜に新聞配達をしているのがわかった。母親は台湾へ行ってはたいへんだと早速「母病重し」と打電した。流石兄も驚いた。早速飛んで帰りたいが旅費が無い。仕方無く横浜より大阪へ東海道を無銭旅行をして帰って来た。どうして帰ったかと聞くと兄は文字が上手であった為筆とエナメルを持って外灯の文字の消えかかって居るのを見つけて書き直し何程かの御礼を貰い夜はお寺へ泊めて貰ったり野宿をしたりして何日もかかってようやく大阪へ着いた。

みすぼらしい姿でそれでも行方不明の次兄が帰ってきたので母は涙を流して喜んだ。母親とは有難いものだ。皆喜んで迎へたが苦しい家計のところに居候が一人ふえた。食べるものもろくに食べず旅をして来たのかガツガツとよくめしを食ふ。

これでは困ると新聞広告である興信所に入社する事になった長兄も砲兵工廠を退職して二人して入社した。ところがあとで判ったのだが興信所はインチキで一生懸命働いたが月給も満足にくれない。若い二人は途方にくれた。

いよいよ収入は皆無。明日の米を買う金も無い貸してくれる米屋もない。このままでは餓死を待つより他にない。借金取は毎日やって来る。借りた店、家主にも申訳ないが万策つきて夜逃げと決めた。母親は長屋の人にも尊敬を受けお世話もしておったので近所の人々も同情して夜逃げの手助けをしてくれる。
同病相哀れむと言うか貧乏人同志はお互に暖かい気持だ。悪いこととは思い乍背に腹は変へられない。夜十時頃近所の人とも別れをつげ頑ぜない弟を車に乗せて親子五人夜逃げの荷車は蒲生をあとに西へ西へと福島の浦江町淀川の堤防近くのある家の二階へ着いた。 時まさに大正二年十五才の年の暮であった。(次号へつづく)

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