8.16歳、船場で大阪商人を志す


大正3年の秋、9月の初旬数え年16歳で仕入洋服の仕立屋西村さんに住込んだ。前号に書いた通り、心斎橋筋の北村帽子店をやめてから2年間、祖母と母に死別、また弟とも生別してその間 家のために働き続けたが、いよいよ今は一人になり、思うままに希望の道へ進めるのだ。弧独の寂しさに負けてはいけない。人生を強く生き抜いて立派な洋服屋になるのだと、洋服の仕立の見習いとしての第一歩を踏み出した。

時候も冬服の仕入時期、西村さんは猫の手も借りたいような忙しさ、主人は40歳余りの働き盛り、自分は主人の助手として生地を裁つ、朝6時に起きて職場の掃除、朝食がすむと仕事が始まる。食後の休憩などあったものでない。終日、働いて働きまくるのだ。夜は1時ごろまで、のべつ幕なしで仕事が続く。自分の過去に随分苦労には慣れているが、これには驚いた。しかし辛抱しなければいけない。夜が更ける。12時も過ぎた。もうこのへんで終うのかと思っていると、またラシャの生地を出してこいと言われる。思わず時計を見る。主人はジロッと自分を見て「寺の坊さん時計を眺め早く住持(10時)になればよい」と皮肉を言われる。10時どころか12時をとっくに過ぎているのだ。目的のために辛抱しなければならない。歯を喰いしばって働き続ける。
何と言っても冬物の仕入時、働けるだけ働かすのだ。今考えてみると嘘のような話だがその当時はあたりまえの事だったのだ。仕事が終ると綿のごとく疲れて寝る。

一人前の仕事をしている先輩は5人ばかりいるが実に教養のない人ばかり。見習いの自分と違って多少自由がきく。時々夜、外出して朝帰りをする。どうやらよからぬ場所に泊って来るらしい。鄙猥な話に花を咲かす。子供ながら苦々しく思った。それに西村さんは経営が大分苦しいようだ。月末などには問屋から預かった材料のラシャ生地を質入れするのだ。夜遅く自分が荷車に積んで質屋へ持って行く。高い利子で借りたお金で支払いをする。 これだけ忙しく働いても金が足りないのだ。何か経営に欠陥があるのかも知れない。
奥さんは贅沢な衣服を着飾って毎日のように出歩いている。台所は女中任かせだ。15歳位の娘さんは筑前琵琶を習いに出かける。当時流行していたとは言いながら同じ習うなら生花か、茶の湯でも習ったらよいのにと思う。こんな事で生活費が嵩むのだろう。夜使いに外出すると、あまり眠いので居眠りしながら歩く。道路に置いてある荷車にぶっつかって驚いて目が覚める。一ヶ月もする内に粗食と過労とで躰の疲れがひどくなり、顔色が大分悪くなって来た。勉強したいと思ってもそんな余暇はない。

洋服屋になりたくても、こんな人達と同じ道を踏みたくない。このままでは先輩のように教育のない低級な職人で一生を終るのかも知れない。大きな洋服商などはとても成れそうにもない。自分はこんな人達とは違うのだ。さて、そんなら自分は何を志したらよいのか、方針を変えることにした。職商売などとケチな考えをしたのが間違いだ。三ヶ月勤めて暇をいただいた。やはり自分は商人になるのだ。立派な大阪商人として身を立てたい。大阪は日本一の商業都市だ。

 その中心が船場だ。本町の呉服問屋へ勤めたい。当時は本町には伊藤忠、西川甚五郎、伊藤萬、田村駒、山口玄洞等々立派な問屋があった。また紹介所を訪れた。自分の希望する所を紹介してほしいと頼んだが、そんな店はどこも求人をしていなかった。頼む方が無理、そんな大問屋は就職する人が多く紹介所を通して求人する筈がなかった。

 そこで紹介してくれたのが、船場の東区瓦町4丁目、日納本店という、かなり大きな履物問屋だった。主人は日納藤七郎と言う立派な人で、初めてお会いして話をしてみると教養の高い人格者であり気高い風格を備えて、一言一句聞いている間に敬服した。この主人について人間を磨きたいと、奉公する事に決めた。店は御堂筋東側当時は今と違って狭い道路であり、今の瓦斯ビルの向側地下鉄の上あたりであった。間口5間、奥行30間位の広い家。土蔵が3戸前あった。御堂筋には北は淡路町より南は博労町まで履物の問屋が軒を並べて続いていた。主人は市会議員と、問屋仲間の顧問をしておられた。出身地は岡山市で木藤と言う大きな荒物問屋の息子さんで学歴もあり、日納家に養子に来られた。奥さんとの間に今宮中学生の息子さんを頭に3男3女の子供がおられた。

 店員は番頭さんと合わせて5人の丁稚がいた。女中は、上女中、中女中、下女中と、3人典型的な船場の上流商家だった。長男をぼんさん、次男はなかぼん、3男を小ぼんちゃん、お嬢さんは上からいとはん、なかいとはん、こいさんと呼んだ。 自分は新米店員で正吉どんと呼んでくれた。当時は店員が地方へ出張販売するのではなく 地方の問屋小売屋が旅館へ泊って仕入をしてくれるのであった。商売も余り忙しい事もなく荷造りもほとんどない日もあった。主人一家は皆さんよい人達ばかりでよく可愛がっていただいた。何より嬉しかった事は夜は用事がなく勉強ができることであった。そこで早稲田実業講義録によって勉強する事にした。夜遅いのは慣れている。何でもない。電燈に風呂敷を被せて夜中の一時ごろまで勉強するのだ。兄達はみな中学以上の学校へ行っているのに自分には学問がない。学問のない者は今後商人として大成しない。石にかじりついても憶えなければいかぬと、我武者羅に勉強した。

主人は市会議員として交際も多く毎晩のように夜遅く帰られる「オイオイ」と表の戸を叩かれる「へーい」と言って戸を開けるのが自分だ。そのうちにいつも自分が戸を開けるので「オイオイ」が「正吉」と自分の名を呼ばれるようになった。ある晩自分が電燈に風呂敷を被かせて本を読んでいるのを見付けられて「何しているのか」と聞かれたので講義録を勉強していますと答えたら「そんなに勉強したいなら夜学へ行ったらどうだ」と言われた。実に有難い事だ。涙が出るほど嬉しかった。当時備後町に船場小学校があって、夜学に実業補習科と言うのがあり商業学校程度の学科を教えていた。主人は学務委員をしておられたので特に途中より試験もなく特別に入学を許された。

専攻科目に簿記と英語を習う事にした。これだけは講義録では憶えにくいので実に有難い事だった。このような理解のある主人の恩情に此の上もない幸せを深く感激した。家族の人達も御寮人さん(奥さん)はじめ子供さん皆が正吉どん!! 正吉どんと暖かい気持でよく可愛がって下さった。自分としても恩に報ゆるためにできる限りの尽力をしてよく働き、どんないやな仕事でも笑顔で引受けるようにした。

好事魔多しという世の中で、仏ばかりではない。26歳位の九州中津出身の番頭さんがおり、自分が余り学問の勉強をするので心よく思っていなかった。事々に意地悪くせられた。例えば店を終って教科書を風呂敷に包んで行って参りますと声をかけて出かけると「おい正吉どんどこそこへ使いに行け」と用事を言い付ける。他に店員が用事を済ませて遊んでいるのにわざと自分に用事を言い付ける。止むなく学校を休むのである。実に困るが上長の命令であれば致し方がない。だがこの人にもまたよい面もありいろいろと教えられた事は後日随分役に立った。ではあとは次号で。(つづく)

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