9.夜学通学、船場・商家の食生活


 さて前々号の続き、日納藤七郎商店の店員として夜学に通学し、相かわらず夜1時頃まで勉学を続ける。前にも書いた如く、店は忙がしい時は、地方の得意先が仕入れに来た時、目の回るほど、忙がしいが、その合間は、1梱も荷物の出ない日もある。九州中津生まれの番頭さん、九州男児だと威張っており、少し間違いでもやると、忽ち拳骨が頭に来る。実にスパルタ式教育だ。雨の降る客の無い日、店頭教育がはじまる。畳敷きの店の間で番頭さんの前にきっちり坐らされる。これからがたいへんだ。
「おい、自分は地方から来たお客さんだ、お客さんに対する作法を教えてやる」先ず挨拶、販売の応待、座り方、頭の下げ方、言葉づかい、「ご機嫌よろしゆうございます」「毎度有難うございます」「お暑うございますが皆様お障りございませんか」などからはじまって、延々2時間3時間、足は痺れる苦しいこと此の上なし。併しこのようにして教えられたのが後日役にたった。その番頭さん今はどうしておられるか、「艱難は汝を玉にす」思い出して感謝しておる。地方客が船場、島の内辺の旅館に泊って大阪へ仕入れに来る。

 当時は現今のように問屋が地方へ出張して注文を聞いて回り集金すると言うことはほとんど無かった。毎朝投宿日報と言う簡単な新聞が配達される。その新聞に各地の投宿客の名前が記載されている。熊本・履物商〇〇商店、広島・金物商〇〇商店と、朝それを見て、それぞれ手分けして関係ある客を迎へに行くのだ。島の内、今の貿易部の近くに泉作と言う旅館があって二三度訪れたことを憶えている。
自分は年少のために大ロは番頭さんが行く、小口は自分の受持ち、江戸掘下通り4丁目に石洲屋旅館があった。山陰石見の国の仕入客の常宿だ。いつも10人余りの仕入客が泊っている。その人達は呉服・金物・履物と何でも売っている百貨店だ。朝食をすませて8時には旅館に着く。部屋に通って初対面なら名刺を出して番頭さんに習ったように挨拶をする。常得意なら早速商売の話だ。
ところが自分の店だけではない、同業者の番頭連中が続々詰めかける。自分のような年少者はいない、みな20年過ぎた手代か番頭さんだ。羽織を着て腰には煙草入れを差している。先ず客と話しをする時は、きせるを出して煙草に火を付ける。部屋中は煙でもうもうとしている。丁稚の自分には肩身の狭いことおびただしい。丁稚は無論いくら寒くても羽織を着ることは許されない。黒いめくら縞の木綿の着物に小倉の角帯を締めている。他の番頭連中はこの小僧めがと白い眼で見ている。何としても負けないように客を店へ連れ帰らねばならない。裏蓋のある算盤で同業者に見えないように客に主要商品の値段を示す、客は少しでも安い店で買いたい。

 客は旅館を出る。番頭連中は後からぞろと自分の店へ一番先に来るやうにと引張り合いだ。一番先は引張った問屋でほとんど仕入れる。二番三番と後になるほど仕入れが少なく後に回った問屋に品切れの品、または格安の物だけより、仕入れない。したがって何としても一番先へ客を引張って帰えらなければならない。負けてはいけないと、一生懸命に努力するが思うようにゆかない。客も連れずにションボリと店へ帰ると、番頭は「アホー、今日も空戻りか、意気地無し」と叱られる。小さくなって帰えるのである。
何とかして大人に見て貰いたい、他店の番頭に負けたくない、少しでも年を上に見せたい、今考えてみれば馬鹿な話だが、無理をして煙草入れを買って、角帯の腰に差した。意気揚々?と部屋に入った。先ずきせるに刻み煙草をつめて煙をすっと吸い込んでプーツと吹き出した。頭がくらくらとして目がまいそうになった。これぐらいで負けてはいけないと頑張る。それでも年少者に同情してか、三度に一度は一番先へ来てくれるようになった。

客が来ると3戸前ある倉に次々と案内して商いをする、在庫品以外は製造工場より見本の柄物などを(ボテ)に入れ風呂敷で背負って客の前にならべる。そこで裏板の張った算盤で客と工場との間に入り算盤で客に買値を、工場には売値がわからないようにして売買をする。裏板の付いた算盤は実に便利なものだ。昔から算盤に裏板のついているのは計算に使用するばかりでなく、かくのごとき用途に使用したものだと思う。

客が値を引いてくれと言えば目前で工場へ値引きを交渉する。それで結構商習慣とはいいながら商売が出来たのだ。当時の取引きはほとんど現金または荷物到着後送金決済をしたもので問屋の工場への支払いも月末には小切手または現金で支払ったものだ。たまには60日位の約束手形で取引することもあった。銀行の使いも自分の役目、高麗橋3丁目に百三十銀行高麗橋支店に手形割引きまたは入金に行く、自転車は無く歩いて行くのだ。手形の割引きは10分も待たずに入金帳に付けてくれる、金利も日歩1銭5厘位だったと憶えている。

 その当時でも先方が手形の期日に入金出来ないような場合、こちらから送金した、その場合は備後町近江銀行本店かまたは本町3丁目に第三銀行本町支店より送金した。以上の3行とも今は無く3行とも現在富士銀行に合併せられた。併し今考えると当時は金融は非常に楽であったと思う。銀行へ使いに行くうちに資金に対する考えが幾分知ることが出来た。

 船場の商家の食生活は随分粗食であった。今日若い方にはおよそ想像もつかぬことである。朝は古沢庵、3年位経った悪臭を放つ、少し大袈裟な言いようだが、この沢庵は自分達店員と女中とで毎年12月ごろ漬ける。1年位の内に食べると旨いのだが決して旨いころには食べない。2年位の夏になると漬物桶の4斗樽の中に蛆が湧く。そして悪臭を放つ。年中朝と夕食は副食物はそれだけお茶漬でかき込むのだ。味わって食べることはとても出来ない。
お昼は総菜が付く、菜葉か蒟蒻(こんにゃく)類のおつゆ、雑魚の煮出しで、煮る油揚げが付くとご馳走だった。月に2度、1日と15日はお頭付きとて鯵か鯖が1尾付いた。それが唯一の蛋白質と脂肪であった。食べ物のことを書くのは何か卑しいことであり、嫌なことであるが当時の船場の問屋の店員の食生活を書いてみた。

船場の食生活は極度に生活費を倹約した永年の習慣であったのだ。日納さんだけでは無い。誰も不足に思う者は無い。そのころ店員に脚気に罹る者が多かった。今思うとそれは栄養失調だったと思う。自分も栄養不足と不眠とによってご多聞に洩れず脚気に罹った。顔が青ぶくれ足は指で押すと穴の穿く位へっこんだ。心臓も悪く少し歩いたら動悸がしてとても苦しかった。米糠を炒って呑むとよいと言ってくれたので呑んでみたが少しも利かなかった。
尼ヶ崎の出屋敷に脚気によく利く灸を下すところがあると教えてくれたので杖をつきながら行って背中に38カ所灸をすえてくれた。店に帰って毎日女中に頼んで、すえて貰う。3人の女中が代るがわる面白がって大きなモグサに火を付けて喜んでいる。他人の苦しみも知らず不人情なものだ。それだけ熱い苦しみも空しく、なかなか治る様子も無い。養生に帰る家も無い自分に心配してくださって、阪神打出に別荘があり、別荘番もおるが、芝生に水かけをするという名目で別荘にやっていただいた。空気のよいところで養生させていただく、何と有難いことだろう。嬉し涙が頬を伝った。ご主人のこの恩情に報ゆるため、早く治って、ご恩がへしをしたいと心に誓って打出の別荘に出かけた。(次号につづく)

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