4.学問の無いくやしさ。ああ、勉強したい。

 帽子屋と言ふ商売は当時としてはよい商売だった。凡んどの男性は帽子をかぶって居た。随分上等の品物もあった。月に一個位シルクハットも売れた。舶来品にはイタリヤ、英国製が可成りあって、国産はワシ印の高橋製帽の品物が上等の中折を造って居た。
心斉橋筋には十軒程の帽子屋があった。五軒程南に国阪屋と言ふ大きな帽子洋傘屋があって他店の陳列の正札を見にやらされた。スパイだ。子供心にも商売のきびしさが感じられた。併し今日になってみれば帽子屋にならなくてよかったと思ふ。

その正月の終り、1月16日、夜中、南の繁華街に大火事があった。店の物干台から見ると道頓堀の芝居五座の櫓が火の中に見えた。今の松竹座の裏あたり、百草湯と言ふ風呂屋から出火して火はたちまち西風にあふられて夜通し延焼、下寺町辺まで焼けた。今日の千日前を東西に走る電車通りはその跡に開通したのだ。

その時代の消防は今日と大した相違があったと思ふ。その2年前自分が大阪へ来る前の年、夏に北の大火があり天満焼けと言ふ。その当時は二三年の間に歴史に残るやうな大火が2度もあった。火事は江戸の華と言ふが大阪にも昔から、天保時代には大阪の3分の1を焼いた大塩焼け、その後新町ヤケ等、大火は何度もあったやうだ。 南の大火後、戦災は別として50年の間大火が無い。消防局に感謝せねばならない。

余談はさて置き、心斎橋の丁稚生活は続く。門松がとれて梅が咲き桜のつぼみがふくらむと春が来た。表を通る人々をながめて居ると春を感ずる。自分位の少年が母親と嬉しさうに通って居る。今頃は小学校の卒業式で蛍の光を歌って居る事だらう。自分も学校に行って居ったら卒業証書と優等賞、皆勤賞も貰って居ったらうにと思っても仕方の無い事だ。学校へ行かなくても自分で勉強が出来る。独学だ。無学では今後人並になれない。

幸いボンチの本を借り、余暇をみては店の隅で本を読む。朝食がすむと女中代りに家の掃除やら使ひ走り、「ご寮はん」の御用を勤める。こまめによく働くので優しい御寮はんは自分の子供のやうに可愛がって下さる。美しい観音さまのお姿のように思へた。困った事には時々風呂に連れて下さった事だ。光明皇后のように、きたない自分の身を洗って下さった。その人は今はこの世に生きて居られないだらう。婦人の洋傘がよく売れるやうになったら夏近くなった。

折角なじんだ丁稚奉公の御別れの日が来た。当時私の家は長兄、それに祖母と母親、弟の四人暮しであった。次兄が三井物産をやめて三人の家族を長兄に預けて上京交代したのだ。長兄は父の死去やら自分の大病やらで、一ツ橋高商まで行ったのだが、当時の不景気は学校出でも思うやうな就職は出来ず、京橋にある砲兵工廠の職工となった。薄給の兄には生活が苦しい。そこで自分を働かせて生活の足しにと考えた。

近くのラムネ屋の瓶洗いに雇われた。日給25銭と約束して翌日から働きに出た。不景気のわりにお米が高価だった。一升20銭位だったと思ふ。家では麦飯を食べて居た。月末の給料を貰う時になって、25銭と約束したがこんな年のゆかない子供は15銭より出せないと無情な主人は約束をやぶった。泣くにも泣けない。スゴスゴと家に帰った。

これでは生活の足しにならないと兄が働き口を探してくれた。今度は農人橋松屋町を東に入った南側、写真の台紙を造る工場。厚紙をのりで張合せて台紙を造るのだ。一人前の職人がのり張りをしたのを干したり運んだりするのだ。日給は20銭だった。東野田町5丁目、朝7時に家を出て6時終了だ。はげしい労働でぐったり疲れて帰ると母親が気の毒がって、いたわってくれた。たくさんの兄弟の内自分が一番不遇のやうに思えた。不景気は一層深刻であった。この工場も経営が大分苦しいようであった。夏も終り頃になって注文も少なくなったのか、仕事の量が目に見えて少くなった。

或る日、新しい工員が半分程首切りだ。その当時は雇主の言ひなり、首切反対も何もあったもので無い。鶴の一声だ。それでも気の毒に思ってか、近くの釣鐘町の活版印刷工場に世話してくれた。この工場は忙しかった。活版印刷の紙取りと言う仕事だ。朝8時より夜9時まで弁当を2食分持って出かける。無論麦飯だ。動力は今日のやうなモートルで無く、瓦斯エンヂンで機械を運転するのだ。先ずエンヂンをハンドルで廻す。インキでよごれながら印刷した紙を1枚宛とり揃へる。機械の回転と共に油断なく手を働かさなければならない。随分苦しい仕事だ。夜9時になると終業。インキの付いたローラーを石油で洗って帰らなければならない。

2階に文撰場がある。主人に何とかして文撰をさせてほしいとたのんだが、学問が足らないから出来ないと断られた。残念だが仕方が無い。学問の無いくやしさが痛切に感じられた。それでも夜業をするので25銭くれた。

夜9時過ぎて家路に急ぐ途中、片町辺を通る。まんじゅ屋の店先に電灯にてらされておいしさうなまんじゅが並べてある。おなかが空いている。食べたいなあ、ああ自分がお金持ちになったらあのまんじゅを腹いっぱい食べたい。家に待って居る弟にも持って帰ってやったらどのやうに喜ぶだらう。あまりにもさもしい気持ちだ、あさましい事だと歯をくいしばる。学問の無い自分は文撰工にもなれぬ。勉強したい。疲れた身で本を読む。鉛筆を持つ。貧乏にも負けてはいけない。母も祖母も生活に疲れて居る晩年に気の毒な事だ。ほの暗い電灯の下でそんな事を考へて夢路をたどる。
今月の第3回私の苦闘時代では、度々職を替へて居るが、決して自分の意志で替へて居るのでは無い。不況時代このやうな時代もあったのだ。今後も未だ未だ続く。理解してほしい。

※先号で三休橋東詰及び心斎橋東詰と出て居るが、三休橋も心斎橋も南北にかかって居る橋だ。誤植と思ふが南詰と訂正してほしい。(次号へつづく)

大阪の丁稚生活


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